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お茶、その他についての、極く私的なブログ
by tamon
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三柱鳥居の蓋置

七種の蓋置きの一つに、三つ人形がありますね。

その別バージョンとして、三柱鳥居の蓋置を見たような気がするのですが
家にある本をひっくり返しても無いのです。どなたかご存じ有りませんか?

 何故こんな事を言うかというと、京都は右京区の蚕の社と呼ばれている
木島神社を4月にお参りしてきたのですが、そこに三柱鳥居が存在するのです。
とても神聖な霊地であり、なんだか、自分自身が生まれる前のふる里のような
気がして(日本語おかしいですか?)、懐かしいというか、落ち着くというか、
いやいやそれ以上のなにものか、吸い込まれていくような感覚を味わいました。
ここは完全に時間の止まった世界です。

秦氏の神様であったろう事は容易に想像されますが、中村直勝先生も
「京都の神社の中で、最も深いものを包蔵する神社」
と仰っています。

 三柱鳥居の蓋置きに関する情報ご存じの方は宜しくお願いします。


<追加>20.10.9
参拝した江戸の三囲社の三柱鳥居へリンクを張りました。

<訂正>24.7.23
誤りを訂正します。
俗に三つ鳥居は、「三輪鳥居」(大神神社、牛島神社等)。
蚕の社、三囲社は「三柱鳥居」。
大変失礼しました
# by tamon1765 | 2001-08-18 19:56 | お道具とお茶室 | Trackback | Comments(0)

川上宗順のお弟子さん

 『川上不白茶中茶外』を見ますと、
川上宗順の弟子の代表として、
馬越恭平、益田鈍翁、藤原暁雲、山下かめ、野崎幻庵、
藤田岡県の6人の名が記されています。

川上宗順さんについての記述を捜すために、
・藤原銀次郎『私のお茶』s33講談社、
・藤原銀次郎『思い出の人々』s25ダイヤモンド社
をひっくり返してみました。

さて、暁雲藤原銀次郎の本には、
 ・私のお茶の先達は、...益田鈍翁だ。
 ・(自分は、益田鈍翁の)不肖の弟子
 ・本格的な稽古などする時間もなく、又してみようと
  いふ気もなかなかに出なかった。
  ただ一度だけ京都出張のみぎり、裏千家の家元について、
  わずか一週間たらずの指南を受けたことがある。
以上の記述は見出せましたが、藤原自身は川上宗順について
言及していません。

また、『自叙益田孝翁伝』にも、川上宗順さんに関する記述
は見出せませんでした。

教えた側と教わった側にズレがあるというのは、寂しい
ことです。
# by tamon1765 | 2001-08-18 12:57 | 明治期以降の茶人 | Trackback | Comments(0)

天心の抹茶

岡倉天心は、私どもにとってまず、『茶の本 (明治39年公刊)』 と
いうことになります。が、彼は、お茶(抹茶道)の先生について正式に
稽古をしたことは無いようです。
では、その知識の源泉は何か、という興味が生じます。

結論から云うと、妻の基が、江戸千家不白流の石塚宗通に習っています。
啓草社の茶湯手帳に依りますと、この石塚宗通さんは、石塚流(不白流
石塚派) の4代、明治41年(1908) に84歳で亡くなられた不染庵という
ことになるでしょう。
計算すると、この宗匠の生まれは、文政7年(1824)。
天心が基を娶った明治12年(1879)には、この宗匠は55歳です。

ところが、この基子さん、ヒステリーを起こして天心の卒論 (つまり
天心は学生結婚なのです) を破り捨てたと云う方で、私の中ではどうも
お茶と結びつかない方であります (マア、余計なお世話ではありますが)。
彼女は、大岡越前守の縁者というから、元々は天心と同じ武家の出では
あります。
ならば、少女時代に習ったのでしょうか。
と言っても輿入れは17歳です。先に書いたとおり、この時宗匠は55歳。
はたして、宗通に習ったのは何時なのでしょう。

ちなみに、卒論 「国家論」 が破り捨てられたおかげで、美術に携わる我らが
天心が誕生したのですから、基子さんに感謝しなければいけません。

さて、その後、根岸の家 (明治23年冬から) の時代に、天心らは
日本婦人の婦徳を養うことを目的に 『清迎会』 という婦人団体を組織し、
そこに茶の湯の指導者として天心が、石塚宗通を招聘しています。
そのことから、明治23年以前からの二人のつきあいが確認できました。
(明治23年、この時宗通66歳)
以上は、岡倉一雄 『 父天心をめぐる人々』 にあり、一雄氏は 「 変わり者
の石塚宗通 」 と言っているのが愉快です。
きっと魅力的な宗匠だったのでしょう。

立ち止まって考えると、妻基以上に、天心自身がヒステリーの人であり、
且つ又、それをエネルギーに大きな仕事を成し遂げた人と思われます。
茶の本を読むと当然かも知れませんが、お点前の動作についての記述が
ありません。
果たして、天心自身どんな風に抹茶を点てたのでしょうか、
彼のこと、人を驚かすような事をしていたのでしょうか、
想像は膨らみます。



# by tamon1765 | 2001-08-17 12:14 | 天心岡倉覚三さん | Trackback | Comments(0)

川上宗順さん


 昔の東京では不白流が盛んで、偉い先生がいたというお話しです。
その方の名は、川上宗順です。

 林左馬衛先生の本 『 茶道史の散歩道 』 を開いてみました。
その本には、宮崎晃蓮さんの言葉で、
  「(明治・大正時代の東都では、)宗偏流も遠州流もありましたが、
   不白流ほどお盛んではありませんでした。」(偏はぎょうにんべん)
とあり、林先生自身 「お茶の先生では、浜町のほかに、どんな方
がたがきこえておられたのですか。」 と質問されています。
 つまり、浜町さん(不白流の川上宗順) を当時の有力な茶の宗匠と
見なしているということになります。
そして、その弟子として、「馬越恭平、三井さん、益田さん」 が挙げ
られています。
三井誰か?、益田兄弟のうちの誰か?は今後の課題にするとして、
近代のお茶を担った、大物ばかりではないですか!

さて、『 馬越恭平翁伝 』(昭和10年発行)を見ると、川上宗順を
ちゃんと自分の先生として遇し記載しています。曰く、
 ・当時東都茶界に指導的大勢力を有していた川上宗順宗匠が、旧習に
  泥んで容易に名器を使用する事を許さず、門人中に名物茶器を購入
  せんとする者あれば頻りにこれを諫止した。(p339)
 ・江戸千家流にして一種の見識を持し、茶礼の教授方が極めて厳格で
  あった。(p346)

  ちなみに、林先生の本の中で、宮崎晃蓮は川上宗順を
 ・人が立派な方で、九州と四国にも流儀をひろめられ、遺跡がいくつも
  残っています。(p147)

これらの話しから、見識を有し、弟子から慕われる宗順先生、単なる
道具茶の実践を許さない方のようです。
偉い方だったのでしょう。

ところで、私と流儀違いとはいえ、お名前を現在ではあまり伺うことが
無いのがちょと寂しい気がします。



# by tamon1765 | 2001-08-17 03:24 | 明治期以降の茶人 | Trackback | Comments(0)

渡辺保さんのお祖父さん

古本屋で、演劇評論家の渡辺保さんの本(書名は忘れ
ました、随筆集の初の本だとか)を立ち読みをしました。
すると、驚くべき事が書いてありました。
彼のお祖父さん、茶道の家元だというのです。
「どうも、孫の私に継がせたかったらしい、が、興味が
なかったので一度も習ったことがない」
というような事をご本人が書かれています。
何という流派でしょう? 
とても興味があります。
# by tamon1765 | 2001-06-21 23:50 | 舞台の話 | Trackback | Comments(0)