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京伏見の醍醐寺三宝院庭園に藤戸石という石がある。
1450程の石が組んであるという名園の一つであるが、 その中で一際有名な、石である。 ![]() 藤戸といえば、佐々木盛綱に浅瀬を教えて殺された、 浦の男のなんとも嫌な話しだ。 しかし、この石は武将を虜にし、 1)足利義政の所有となり、 2)細川藤賢が自らの屋敷に移し、 3)織田信長が足利義昭のために建てた二条第へ運び、 4)秀吉が聚楽第へ運び 5)秀吉が醍醐寺三宝院に移した(現在に至る) というのだ。特に、信長も囃しながら運び、その石の入手を 喜んだとされる。 何故そんなところの石が、と感じていたが、プチたびという サイトには、 > 庭園は、1598(慶長3)年、豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際し、 > 庭奉行・竹田梅松軒に命じて築庭させた > 藤戸石は、もともと瀬戸内海の藤戸(現在の岡山県倉敷市藤戸) > の岩礁にあった「浮洲岩(うきすいわ)」。源平の合戦を見守った > ことから「血染めの石」とも呼ばれていた。 とある。血染めと言われた物を庭の真ん中に据えるのは私と しては、どうもちょっと……である。 そのほか、殺された男がこの岩の傍らに流れ着いたとも、戦さに 勝つ武運の石といわれたとの情報もあり、様々な謂れの出典を 知りたいと感じた。 ところで、倉敷市の藤戸の旧蹟は今では全くの内陸部になって しまっていたが、迫力ある巨大な岩が道の脇にあり立派なものだなあ と感じたものだ。確か藤戸というバス停前だったと記憶している。 能「藤戸」にも、「あれなる浮洲の岩の上に」とあり、 香西精先生は「浮洲の岩は、のちに京都に引かれて醍醐三宝院の 名物になっている」と断定されている 三宝院では、池を隔てた向こう側なので、眼鏡や双眼鏡を持参し なかった私には、残念ながらその本来の迫力が感じられなかった。 庭としては、尖ったところのない、ゆったり感のある落ち着いた心休 まる庭である。 石とは関係ないが、今年8月24日に落雷のため准胝(じゅんてい) 観音堂が全焼した。こちらは、西国三十三観音霊場第11番札所でも ある。平安時代の貞観18(876)年の創建と伝えられ、昭和14年にも 火災焼失、43年に再建された。本尊の准胝観世音菩薩は秘仏。 形あるもの全て滅びるとは言いながら、悲しいことである。 庭園の撮影は確か出来なかったと思う。参拝したのは6年程度前。 写真は、成和園さんのHPからお借りした。 <27.7.7>追記 蒿蹊伴先生著「閑田耕筆」を眺めていたら、 下記のようにあった。 「滄桑相変するは、仙人ならではみるべからねど、 佐々木盛綱が渡りし藤戸も、今は陸地となりぬ」 この本は、寛政11年(1799)の跋があるので、 この時点ですでに内陸部に来ていたということが 分かる。
by tamon1765
| 2008-10-25 23:08
| 石
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Comments(1)
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