うす茶の手前に極真あり
2006年 10月 20日
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by
tamon1765 at 2007-08-18 12:36
好きな言葉だ。
濃茶であろうと、薄茶であろうと、格の高い相伝もののお点前
であろうと、ある意味、年数かけて手順さえ覚えれば出来ない
ことはないだろう。(と、本当はそれはまずいし、あってはいけ
ないことなのだが、)
しかし、例えば、棗や茶入の上の茶杓にどう取るか、
どのように手が延び、近づいていき、どう掴み、どのように
体に戻ってくるか、それを見ればもう上のお点前を見ずとも、
おおよそ想像がつく。
もちろん、例えば、の話だ。
薄茶の一見簡単と思われる基本動作一つ一つほど、
全てが分かる、怖いものはない。
そこにこそ、極真が隠されているのだろう。
濃茶であろうと、薄茶であろうと、格の高い相伝もののお点前
であろうと、ある意味、年数かけて手順さえ覚えれば出来ない
ことはないだろう。(と、本当はそれはまずいし、あってはいけ
ないことなのだが、)
しかし、例えば、棗や茶入の上の茶杓にどう取るか、
どのように手が延び、近づいていき、どう掴み、どのように
体に戻ってくるか、それを見ればもう上のお点前を見ずとも、
おおよそ想像がつく。
もちろん、例えば、の話だ。
薄茶の一見簡単と思われる基本動作一つ一つほど、
全てが分かる、怖いものはない。
そこにこそ、極真が隠されているのだろう。
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by tamon1765
| 2006-10-20 11:28
| 『 南方録 』
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