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円相をめぐって

 平成13年初頭の東京松屋の不昧展のなかで、不昧公の書かれた円相とそれに付随してお坊さんに送った手紙が、特に記憶に残っています。
 手紙の内容は、重要な禅語の一つである円相のなかに自分の名前を書いて良いのか、変じゃないかとの相談です。確か、不昧公自身「何やらおかしき」と手紙の中で書かれていたように覚えています。この展覧会のカタログが手元にないので、うろ覚えであり、もし間違っていたらご指摘願います。



 私自身の考えは、そのようなこと(円相のなかに自分の名前を書くこと)をするのは、僭越の様な気がします。円相はそれ自体で完結した世界です。紋や印鑑ならいざ知らず、ひとたびその円を禅語の一つである円相と見なした瞬間からその円の意味が違って立ち現れるのではないでしょうか。その意味で、不昧公の問いかけは正しいと思います。
 ここで面白い例を思い出します。
 表千家七世如心斎(天然)は、自らの画像を描くことを許さず、代わりに相のなかに「天然」と書かれた「天然居士一円相」を残し、これを画像の替わりとするように言い残したと言います。実際表千家では、天然忌にはそのお軸を飾り、七事式を行います。少なくとも、如心斉は自分の似姿が残るのを好ましく思っていないということでしょう。写真の無い当時、身近な者或いは敬慕する者達がその画像を欲しがるのは当然の欲求です。それを敢えて、自らの画像を描くことを許さなかったのは、何故でしょうか。
 思うに、天然は自らの身体が神格化されるのを嫌ったと考えられます。利休を初めとする代々のように図像に書かれることを何故嫌うのでしょうか。偉大な祖先父祖に対する遠慮でしょうか。しかし、家の意識が歴代の家元宗匠に比べ劣っていたはずはありません。己が非力だったでしょうか、いやむしろ千家中興の祖と迄言われる事績を挙げました。或いは、何か肉体的に自分で好まぬ何かを持っていたのかも知れません。(しかし、そのような情報は聞いたことはありません。)
 さて、或る一つの規範を示す禅語におのれを名を重ねると言うことは、自らの身体性を消し去り、その抽象性をのみ高めます。考えようによっては、こちらの方が、抽象化というフィルターを通過する故に、より神格化が強固なものになるとも考えられます。果たして、如心斎は何をどのように考えておられたのか、興味深い問題ではあります。唯言えることは、如心斎自身にとっては、天然居士一円相の方が、己の画像より自分の望むものであったという事実です。天然の真意はさておき、神格化という点から見ると、利休の「菅丞相になると思えば」という辞世の叫びは、狂歌とはいえ、やはり何とも言えない凄まじさを感じます。自らを神になると宣言する豪儀さは戦国乱世の時代に最高権力者と渡り合った利休ならばこそです。
 この、円相のなかに自分の名前を入れてそれを大切にするよう言い残す方、円相のなかに自分の名前を入れることを逡巡する方、世の中はさまざまです。


続き「円相をめぐって(2)」「私の円相のその後」
をどうぞ

<R4.8.28><R4.9.19>リンクの追加





Commented by 多聞 at 2017-05-17 01:55 x
筒井紘一「茶人の逸話」淡交社のp206に、
如心斉天然宗左画像(堀内家蔵)
がありました。
by tamon1765 | 2001-10-05 06:49 | 茶つながりで、の雑談 | Trackback | Comments(1)

お茶、その他についての、極く私的なブログ


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