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「茶の本」の訳に疑問


天心さんの「茶の本」を読み直していたら、『白い茶筅』
とある。


竹製の茶筌が白いって、どういうことだろうと違和感を
覚え、「茶筅博物誌」を参照しようと探したが、
家の中で
所在不明。

白竹の謂いかと思いながらも、煤竹を使う表千家流から

見ると、どうなのだろうかと、疑問。
天心は江戸千家が身近
と考えたが、今の私には江戸千家
の茶筌の状況を
知るすべがない。


日本語訳から推測するに、「白い」は茶巾を修飾するの

ではないか、と感じて他の訳本もひっくり返してみた。


・ただ清浄無垢な白い新しい茶筅と麻ふきんが著しい対比を

なしているのを除いては、

          (村岡博訳。岩波文庫p54

・ただ清浄無垢な白く新しい茶筅と麻布巾が、いちじるしい

対照をなしているのを例外に、

        (宮川寅雄訳。講談社文庫p47

・ただ、清浄無垢な、白く新しい茶筅と麻布巾がかもしだす

特別なコントラストだけが例外である。

     (森才子訳。中央公論日本の名著p291

・唯一の例外は、竹の柄杓と麻の茶巾で、これだけはしみ

ひとつない真っ白で、まっさらなものでなければならず、

         (大久保喬樹訳。角川庫p84


原文は、

The mellowness of age is over all, everything suggestive of

recent acquirement being tabooed save only the one note of

contrast furnished by the bamboo dipper and the linen napkin,

both immaculately white and new.


私は外国語がからきし駄目なので、英文を見てのコメントは

できない。
私としては、根拠のない想像をただ膨らませることになるが、

天心がどういうつもりで書いたか、を忖度したい。それだけだ。


何れにせよ、白い茶筅には違和感を覚えるし、whiteが竹製dipper

への直接修飾でないため、大久保先生の訳のみスムーズさを感じる。

和訳の修飾部の作り方が英文にも近いように思える。


一方、注目すべきは、他の訳者が「茶筅」として
いるものを、
大久保先生だけ「柄杓」と訳している点である。

英語辞書で動詞”dip”を見ると、確かに「・・・を掬い出す(あげる)

汲む、汲み上げる」の意味もあるが、むしろ、「浸す、ちょっと

つける」が先に記述され、メインの意味のようだ。

言うなれば、下げて液体の中に入れる・突っ込むという行為と、

そこから引き上げるという行為と、逆のベクトルをその意味の内に

含むやや面倒な単語だ。

ここで思い出すのは、中学生の時、leaveが「去る・出発する」

と「そのままにしておく」の2つの意味があることに、得心いか

なかったが、大人になって「出発していなくなっちゃえば、

残った物はそのままにされている状態だ」と漸く納得できた。

このdipも、「浸したら、今度はそこから引き上げなきゃなん

ないよ」ということで、2つの意味が生じたのであろう。

大久保先生は、「汲む」という訳語に引っ張られて柄杓として
しまったのではないかと、勝手に想像してしまう。

欧米に、茶の湯が未だ知られていない時代。

当然のことながら、柄杓も茶杓も、他の茶の湯の道具、さらには

その概念も、英語で言語化されていなかった。

だから、天心は一つ一つ対応する言葉を探しながら“the book of tea”

を書いたのであろう。

このdipperは、汲むための柄杓なのか、撹拌道具の茶筌なのか。

私としては、時代さびたお茶碗との対照を考えると、置き合わせ

をする茶筌に軍配を挙げたい気がする。


<28.6.28>文意変えずに加筆。


R4.4.3>追記

大久保先生の知合に、「私の考えをご本人に伝えてみたい、(つまり、紹介してほしい)」と遂に思い切って言ってみた。その方は呑み仲間だ。すると、彼は驚いて「え?もう何年か前に亡くなったよ。」と。次はこちらが驚く番だった。私は、そんなことばかりの人生。思ったことはすぐにやらないと後悔になる。

令和211月に亡くなられたようです。ご冥福をお祈りします。


R5.3.2>追記

淡交社の現代語でさらりと読む茶の古典シリーズの天心「茶の本」を昨日求めてきました。私の好きな田中秀隆さんが、どう訳し書いているのかな、と思い求めました。

上記のdipper部分の訳です(p85)。

・しかし例外は、新規の柄杓と麻の布巾で、双方の清々しい白さと新しさは、他のものと対比をなしている。

大久保喬樹氏と同じく、柄杓ですね。

私自身、未公開コメントさんから頂いた時点では、茶筌派でしたが。その後「柄杓の方がいいのかなあ」と傾いたままでした。今は多くの訳が出ていますので、図書館でこの部分のコレクションしてみますかね。

それにしても、段落ごとの番号振り、さすが仙堂さんです。







Commented at 2018-01-24 22:20
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by tamon1765 at 2018-07-04 12:01
非公開のコメントさんへ
今になってのコメント、失礼します。
神道さんの常若の考えと同じと思いますが、
茶筌も、袱紗や茶巾と同じように、新品で
あることが求められると思います。
私の先生は、お茶会では必ず新品の茶筌を
おろしていました。
だから、「軸下の紙が剥がせずに残ると困る
ので、ちょっと早めに水につけてね」と
おしゃっていました。
又お役目を終えた茶筌は茶筌供養となり、
先生と一緒に建長寺に列席したのも思い出です。
勿論、柄杓も新品に越したことはないのですが、
お茶会の度に用意されていたことはないよう
でした。
思い出話に終始してしまいましたが、茶筌も
真っ新であることでは柄杓と変わりないし、
それ以上かも、という私からのコメントです。
どうも失礼しました。
by tamon1765 | 2016-02-03 23:21 | 天心岡倉覚三さん | Trackback | Comments(2)

お茶、その他についての、極く私的なブログ


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