鈍翁さんの、お茶の作法に関する考え
2015年 06月 05日
「お茶の作法なんていうものは、せいぜい、
徳川初期あたりにできたものだから、そんな
定めにしたがう必要はない。定めにしたがわ
なくてもお茶はたてられる」
桑田忠親による、鈍翁の言葉です。
但し、「こんな言葉があります」と書いています
ので、直接本人からの言葉かどうか不明です。
二人の出会いはあったか考えてみると、
鈍翁益田孝(1848年11月 ~ 1938年12月)
桑田忠親(1902年11月 ~ 1987年5月)
鈍翁が亡くなる時は、桑田は36歳。なんとも微妙ですね。
桑田が歴史学者として名を成すのは、もっと後で
しょうから、ここでは直接の聞き取りではなく伝聞
あるいは書き残したものからの引用ということに
しておきましょう。
また、桑田は、「(鈍翁は、)自分勝手に、融通無碍、
自由自在なお茶をやったらしいです。」とも書いています。
まあ、私が思うに、この時代のこれら大物は精神の
自由人でしょうから、冒頭の発言も頷なるかな、です。
さて、過去に鈍翁が、お茶事を行うにお手伝いを頼んだ
という記事を書きました。有名な料理人を連れてこない
ところがいいですね。
<R5.8.29>追記
桑田忠親は、松永耳庵の柳瀬山荘に一時身を寄せていたはずなので、
鈍翁と耳庵の交流を考えると、当然会っていたと推測し得る。
ただし、時期的に合うかどうかの話だ。もし、その時期も合ったとして、
耳庵のお供を常にしているわけではないだろうが、鈍翁が柳瀬山荘に赴く
ことがあれば、接することは自然であろう。
今後気にすることは、「桑田の柳瀬山荘滞在期間」「鈍翁と耳庵の同席記録」。
なお、柳瀬山荘は、現在東博の持ち物(寄贈の為)で、黄林閣は重要文化財(
埼玉県所沢市)ではあるが、私の行った道は狭くて私には一苦労であった。