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正月明けからこの曲を聞き、大好きな曲になりました。 これ迄、常磐津で繰り返し聞いたのは『関の扉』しかなかった ので、今年はもっと常磐津を聴いてみたい、という気になって います。
処で、ずっと頭をひねっている文句があります。 その曲の中の、 「親兄弟に迄見放され、赤の他人の傾城に、可愛がらりょう 筈は無い」 「オヤ、聞いたようだよ」 という一節です。 この、「聞いたようだよ」をどう考えるか、なのです。 日本語のニュアンスは難しいです。 常磐津の語りの解釈本を持っていないので、お手上げ状態で した(そもそもそのような注釈本があるかどうかも知らない、 のですけど)。 しかし、幸いなことに、この曲は元々長唄と掛け合いで出来 たものを、それぞれ独自に伝わったと言いますから、長唄本 でどう書かれているか、開いてみました。 結局は、浅川玉兎氏の「長唄名曲要説」に行きつくわけですが、 聴かせ処の「親兄弟に迄」云々は、投げ節といい吉原で客が 美声で唄って歩いたもの、で、 「何だか聞いたような声だね」或いはきいた様な唄だね、と 思い当って発した語。 とあります。 さてどうでしょうか。 その後が、吉原の遊女とお客の踊りになるわけですから、この 鳥追いさんは既に伝法な遊女の気分では、とも思います。
私の結論としては、と言っても複数候補でそれぞれが当然 ニュアンスが微妙に違います。 「分ったようなこと言ってんじゃないよ」 「聞いたようなことを、言ってくれるじゃないの」 更に発展すれば、 「可愛がってくれる傾城だっているよ(いるかもしれないよ)」 「この私(=傾城)がいるじゃないか」
今、ここに書いた言葉も、口で言うのと文章で読むのでは、およそ ニュアンスが違い、伝えるのが難しいです。 何れにせよ、私もまだまだ流動的状態にありますので、その真意を 想像しながら、曲を楽しんで聴くこととします。 #
by tamon1765
| 2023-01-22 16:38
| 舞台の話
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by tamon1765
| 2023-01-14 23:04
| 本
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女優の田中道子さんが女優業のかたわら試験勉強をし一級建築士 試験合格を勝ち取ったという。とても素晴らしいことで、自分 にはとても及びもつかないことで、尊敬に値する。
しかしながら、その記事を見ると、どうも違和感ばかり覚えて しまう。(ネットの女性自身の記事) 具体的に引用すると、彼女は、 「食事で時間をつぶすのが人生で1番非効率だなと思っている」 「食事を作るのが時間の無駄。1時間かけて作って、食べるの 5分じゃないですか? もう1年くらい自炊もしてないですし、 1週間のうち半分以上はカップラーメンです」 「家事をする時間も無駄だ」と感じており、洗濯量を減らす ために部屋着を着ずに過ごしているといいます ということだ。
さて、アクティブな生き方で輝いている友人がいた。 しかし、私は或る時、「この人は人生を楽しんでいるかもしれ ないが、生活を楽しんでいない」と気付き、何かが分かった ような気がした。 そして、田中さんも、私にはその友人と同じに見える。
「食事で時間をつぶすのが人生で1番非効率」「食事を作るの が時間の無駄」という人にお茶はやれない。 お茶を楽しむということは、生活を楽しみ味わい慈しむと いうことではないだろうか。
彼女に対して、老婆心ながらお伝えしたい。 まず、体は大丈夫なのかという疑問。病気になってからでは 遅すぎる、週半分はカップ麺はひどすぎる、もっと自分の 身体を大切にしてほしい。 次に、このような生活様式の方、「家事をする時間も無駄だ」 とする方が、どのような家を設計するのだろうかという疑問。 台所の設計を依頼されて大丈夫なのか。日々の生活を大切に してほしい。 本当に余計なお世話で御免下さい、ではある。
建築士に限らず工芸作家に限らず、全ては日々の生活に立脚 したものでないと、説得力もなく、弱い不安定なもの、無駄 なもので終わってしまうのだろうと思う。
以上が私の感じたことである。 以下は、何か違っているよね~と感じる愚痴(ボヤキ?) 適当にパスしてください。
生活という面から言うと、例えば、安藤忠雄の住吉の長屋は、 彼を一躍有名にした伝説の建物であるが、隣の部屋へ行くの に傘を差さないと濡れてしまうという、私から見るとマンガ であった。 (しかし、施主はそれでも気に入っていたというから、私の 言葉は関係ない者からの余計な言いがかりかもしれない)
また、私の知る会社のトイレの洗面は洒落たデザインのつもり なのか知らぬが、蛇口と水を受ける部分(つまり壁)の間が 5cm程度しかない。 だから、指の第一関節を濡らす程度であり、手のひら全体を 洗うことが出来ない。(日本の有名メーカーの製品である。) そのメーカーの人は、手を洗わないのだろうか? 私は、そこではわざわざ別の蛇口まで行き、手を洗う。 これについては、別の考えもあって、悪いのはメーカー ではなく、それを採用した施工業者?設計士(ナントここ でも建築士設計士である!)?施主? 誰も採用しなければ生産中止に追い込まれている筈。 いづれにせよ、生活者・利用者の視点が欠けている。
お茶道具に関して言うと、私には「これのどこがお茶道具 なの!」というものが存在する。 私の今は亡き先生も、はっきりものをいう方だったので、 「**さん(作家名)のは、現代アートだから、(お茶道具 として)使い物になりませんね」と仰っていた。 確かに、お点前した事あるのだろうかと疑問の生じるよう な作品であった。
<R5.1.23>文意を変えずに加筆変更 #
by tamon1765
| 2023-01-13 23:32
| 雑談
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by tamon1765
| 2023-01-10 21:35
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あるお宮さんへお詣りをした。 高台に鎮座ましますお宮さんで、登るのも久々だ。 富士山を目にすることの出来るお宮さんである。 ついつい、富士山来たかい?という言葉を思い出した。 いや、正しくは「不自讃毀他戒」。 意味あいは、「自己評価ばかり高くすることをやめ、他を悪く 言うことを戒める」というようなことと思う。 実は職場の自分の席のパソコンのフレームに貼って毎日眺め ている言葉なのだが、私はまさにこの戒めが必要な輩のよう である。 今年こそ、この戒めを肝に銘ずるようにしたいものだ。 ![]() 木の股の間から富士山を望む図としかたったのだが、山頂に 横雲がかかり分かりづらくなった写真。 ところで、首都圏にいると富士山は割と目に出来る。 それでも、就職後に、新幹線で関西に向かった時の三島あたり からの富士山には、感動した記憶が未だに生々しい。 どんなに感動したことか。 日本人で富士山の画像を目にしたことのない方はおられない と思うが、是非多くの方が実際に目にされることを願っている。 富士山を拝んでいたら何年も忘れていたことが、突然蘇った。 小学校のバス旅行で、美しヶ原?へ行った時、担任の丸山先生 が「富士山が見えるゾ!」と指さして教えてくれた。 皆、「ホントだ」と喜んでいたが、薄く霞んでいて、私には どうしても見えず、悲しかった。 見えないとはっきり宣言する子もいなかったが、見えない ものを見えたと嘘をつくのも嫌なので、「見えていいなあ、 分んないや。」と話したことを思い出した。 それでよかったんだ、と思う。 #
by tamon1765
| 2023-01-05 22:17
| 雑談
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