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自分事という言葉


この秋位から、オヤ、こんな言葉あったっけ?と

気になった言葉があった。

「ジブンゴト」

昔から、「他人事」(タニンゴトではない、ヒトゴト)

は言うけど、「自分事」という言葉は知らなかったし、

私は使わなかった。

敢えていうとすれば、「自分の事」と言っただろう


気になり出したら、やたら目に付く。

高校生の優秀論文(そして、その発表会)でも使われ

ていた。


以上、善悪とか知識との話しではなく(当然ながら、

私は判断する立場でも何でもない)、私にとっての

2025年の現象として、書き留めておきたくなった。


なお、一時期流行った咄:

「会社の人事部にとっちゃ、人の評価や人事異動

なんてどうでもいいから、いい加減なんだ!

なんせヒトゴト(人事)だから」




# by tamon1765 | 2025-12-12 19:40 | ことば | Trackback | Comments(0)

思いをはせる時間 <ケストナー>


ただね、大切なことに思いをはせる時間をもった

人間が、もっとふえればいいと思うだけだ。

金や地位や名誉なんて、子供っぽいものじゃないか。

おもちゃにすぎない。そんなもの、本物の大人なら

相手にしない。

どうだ、ちがうかな?


エーリッヒ・ケストナー


# by tamon1765 | 2025-12-10 22:35 | ことば | Trackback | Comments(1)

感動することは、自分が否定されること?


感動するってどういうことか?

何かにいいなあと思うのは何故か?

私にとってはずっと気になっている課題である。

その一つの答え(一つの考え)を或る本のなかで

見出しワクワクしている。

引用すると、


音楽会にせよ芝居にせよ、つよい感銘をもって迫る

すぐれた公演に接した夜が終わり、朝が来て、眠り

から覚めたとき、いきなり襲ふあの自分が浄化された

といふ思ひ


それによって聴き手たる僕はたえず自己を否定し、

他のものになることを強いられ、その他のものと

なった自分も否定されるべく導かれ、かくて陶酔と

ともにカタルシスが生ずるといふ心的過程


それらの記憶が一夜眠ったあとの静かに活気づいた

耳底に蘇って、すでに浄化された自分をさらに浄化

してくれるといふ幸福感


とある。残念ながら、筆者の述べようという文脈

と別に、私が勝手に読み取っているのである

(何せ、筆者は、**を聴いて、上記のように

ならなかった、何故か、という否定として考察を

進めているのである)。但し、筆者が感動を上記の

モデルで考えているとみなしてよいだろう。


さて、「今までの自分にないものを見出し、これまで

の自分を否定することで、浄化される。それを感動

という」。そんな図式にしてしまうと、味気ないが、

考える上での大きな示唆を頂いた。


では、否定とは何か。

職場で上司や同僚から否定されて、私は浄化する

わけがない。

音楽の1小節が、私を否定するとはどういうことか。

身近な例で考えると、なかなか奥が深い。


この言葉は、寺田透さんの言葉





# by tamon1765 | 2025-11-28 09:28 | ことば | Trackback | Comments(1)

「中水を差す」の始まり

『備前老人物語』からの超訳

 ***

ある時、利休が茶の湯で、お茶を茶碗へはいた後に、水指の水を

汲んでダブダブと釜へ入れた。

それ以降、中水を差すということがわけもなくはやった。

ある二人が疑問に思って、利休に尋ねた。

すると利休は、「そういえばさ、その日の朝お客さんがあって、

釜のお湯が少なくなっていたから、足りるかなと思って水を足した

のさ。お点前の定法として中水を差すということがあるかどうか、

知らないけどね。このことは、聞いてくんなきゃ、答えることも

無かったよ。よくぞ、聞いてくれた。」と喜んだ。

質問した人は、高山右近と柴田監物だ。

 ***


ちょっと、これからよく考えてみたい内容ではある。

その前に、釜の中のお湯の量を、事前に確認しないのかな?

やや間抜けな逸話とも思える。


猶、この本そのものを手にして開いたのではなく、白井喬二の

編んだアンソロジーに収録された一話として目にした。

『増補国史挿話全集・第三巻・名匠編』春秋社、S9。p648




# by tamon1765 | 2025-11-22 23:56 | 利休さん | Trackback | Comments(0)

外郎売はいなかった


鈴木トウ三『ことば遊び』中公新書を眺める。

すると、こんな事実が載っていた。

歌舞伎十八番の「ういろう売」は、小田原の外郎家

のういろう売の風俗を、二世市川團十郎が歌舞伎に

写したものとされている。

しかし、外郎家はその霊薬を積極的に宣伝するという

ことは一切なかった。団十郎が、外郎家からの許可

をもらった上での、全て彼のアイデアだという。

つまり、せりふ口上も、扮装も団十郎からの

創作ということなのだ。

以上、メモしておく。


さて、私は先の団十郎(12世、当時海老蔵)の

ういろう売り(記憶違いでなければ初演)を拝見した

が、しっかりとやり遂げた。

そんな失礼な言い方をするのも、その頃、私は爽やか

な口跡の辰之助や富十郎、幸四郎(現二代目白鷗)の

ファンであった。一方、当時ハッキリ言って海老蔵

の口跡は、一般にあまり評価は高くなかった。

それで、彼がちゃんとやれるかなあと、心配だった

からだ。淀みなくやり終えた時には、ホッとしたし、

この役者を認める第一歩だったと思い出す。

と、大役者に対して失礼なる内容ではあるが、以上、

当時思ったままを書いた。


この本にも引用されているが、念のため『歌舞伎年代記』

を開くと「うゐらう賣のせりふ」と全文あり、そのせりふ

の長さと、発声しづらい言葉の並びに改めて驚きを覚える。

それに類する全文を暗記し、歌舞伎座という大舞台で滞り

なく勤め上げた12世團十郎の偉さに頭が下がる。

とても半端なことではできない。

当時の私の若気の至りであった。恥ずかしい。




# by tamon1765 | 2025-11-11 14:29 | 舞台の話 | Trackback | Comments(2)