むかし春日野といへる山辺に

2 むかし春日野といへる山辺に、かすならぬ宮司のすしなりし、我とし十といひし比、春日下遷宮ありて、元服せし其年、天正八年の比かとよ、織田信長公天下をきりしたかへ給ひ、同十年、京都本能寺を御宿所としてましませしとき、明智日向守謀反のいきとをり有て、丹波亀山城より夜討にし奉り、

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# by tamon1765 | 2004-08-02 19:48 | 『 長闇堂記 』 | Trackback | Comments(0)

利休さんの肖像画

利休さんの肖像画と言うと、「表千家では座像、裏千家
では立像」と聞きます。
残念ながら武者小路さんではどうなのか存じ上げません。

ところで、道具屋さんの古いチラシが家の中から出来て
きましたが、そのなかに、
  木村友敬「備前利休像」 という作品が出ていました。
写真を見ると、右に脇息?(まるで箱枕のように見える)
があり、右肘をついて座った像です。
このように坐って体の線が右に寄った像は初めて見ました。

話は変わりますが、菅原道真公は、神格化の中で、様々な
道真像ができあがり、それぞれの意味を持っていました。
それは、倉敷の民具博物館にて、各地の人形から伺え
とても興味深かったです。

さて、同じように、それぞれの利休像に、何か特別な意味が
あるのでしょうか。
他の姿を覧になった方おられませんか。
詳しい方に教えを乞いたいです。


(注:追記)
千宗守編『利休とその道統』(昭和49年、創元社)に、
伝長谷川等伯の「利休居士画像」(座像)がありました。
ここから、武者小路さんでは、座像と考えられます。
もちろん、等伯筆と言っても、表千家所蔵で春屋宗園賛
の座像とは別物です。
こちらの画像は、伝等伯とあり、賛はありません。

(追記、18.10.6)
立像というと、例の大徳寺山門に安置された像を思い出
します。
立像磔を思うと、何やらキリスト教の十字架像のようです。

(追記:19.10.14)
利休さんの木造写真は、
春秋社 『新修茶道全集(五) 茶人編』 昭和30年
の口絵写真 第十一図で 大徳寺山門楼上安置
として掲載されている。
両手を前であわせ、曲がった杖を握っている。
ややあごの長めなつくりである。
また、第十図として、千宗左氏蔵の千利休画像が、
春屋宗園賛とは別の座像で、載っている。
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# by tamon1765 | 2004-06-07 18:22 | 利休さん | Trackback | Comments(1)

むかしは茶会の席とて

○むかしは茶会の席とて別に定めてはなく。其席其席に見
合せて炉を切て点し。珠光の座作気なとは六畳敷なりし
とぞ。但し炉の切所は。何畳敷にても三所あり。其の伝に。あげ
て切りと。さげて切りと。道具畳のむかふの地敷居へおしつけて切
との三ツなり。しかるに武野紹鴎が四畳半の座敷を作りはじ
めて炉を下中(シモナカ)に切りしより已来(コノカタ)。四畳半構といふ事ありて
其の後千利休三畳大目構の座敷を造り。初めて炉を中に上げて
切りしより。大目構えの炉といひならはし。其の頃より昔からいひ
伝えてあげて切。さげて切といふ何ぞ捨(スタ)りはてて。今の世
ならは。むかしかかる事ありしといふ事もしらぬ茶人多し
となん
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# by tamon1765 | 2004-01-01 01:34 | 『 茶窓閑話 』 | Trackback | Comments(0)

凡そ仏道修行には

凡そ仏道修行には、何の具足も入らぬなり、松風に眠りをさまし、
朗月を友として、独り場門樹下に心をすまさば、いかなる友か入らん

 (明恵上人遺訓)
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# by tamon1765 | 2003-04-08 10:03 | ことば | Trackback | Comments(0)

珠光さんの名前の由来

大無量寿経を眺めていたら、「珠光」なる言葉を
発見しました。
 日く、「 日月摩尼珠光の炎耀も、皆悉く隠蔽して、
     猶し聚墨の若し。

とあります。
どうやら、仏様の形容のための、そのまた表現の
ための文章の一節のようです。

珠光さんの名前の由来は知りませんが、
ご本人がこのお経を読んで、ここから取っていたと
したら、面白いな、と想像を逞しくしました。
ちなみに、珠光は出家名、村田は出家前の姓のため、
村田珠光と続けるのはおかしいという議論もあります。
確かに、空海や道元に名字をつけて呼ぶ人は居ません。
理に叶っています。
実際、私もお二人がどんな苗字か存じ上げません。

さて、例えば、「太陽」という一般名詞を子供さんに
そのまま、名前で付ける方もいます。
お経の中でこのように使われているということは、
「珠光」という言葉も、一種の一般名詞と考えられます。
昨年、お詣りした奈良の称名寺ではこのお経を読む
のでしょうか。
いろいろと想像は膨らみます。
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# by tamon1765 | 2003-03-20 10:49 | 珠光さん | Trackback | Comments(1)

瓢のように

井口海仙の『茶人のことば』を眺めていたら、面白く
味わいのある言葉を見つけました。

大徳寺四百三十五世の大綱和尚の言葉です。
瓢の白画賛に
 『瓢、瓢、
  汝真瓜の位もなく、
  西瓜の暑をはらう徳もなし。
  しかれど気は軽く、中むなしくて無欲なれば、
  仙人も汝を友として、
  酒を入れて腰に携え、あるは駒を出して楽しめり。
  汝瓜の類にいて、庖丁の雌にあはざるは智也。
  鯰を押えてのがさしむるは仁也。
  羽柴公の馬印となりて強敵をくだくは勇也。
  汝、性は善なりというべし。
  うかうかとくらす様でも瓢たんの胸のあたりに
  しめくくりあり。』


但し、最後の一節には笑ってしまいました。私は、今まさに
うかうかと暮らしていて、しめくくりが減りつつあります。
まさか、和尚様が「くびれ」などと仰っていたわけないの
ですけど。やっぱり何かおかしい。

なんだか急に、家にぶら下がっているの瓢箪を急に大事に
する短絡な私ですが、
まあ瓢のように生きることにしよう、と言うことで。
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# by tamon1765 | 2002-10-12 10:56 | ことば | Trackback | Comments(1)

文楽 「 夫婦善哉 」

平成10年8月5日、大阪の文楽劇場で、第三部 「夫婦善哉」 を見ました。
その折の感想です。

感動しました。とても良かったです。

残念ながら、入りは悪く、3分2程度でしたでしょうか?
(あくまで、私のパッと見なので、数字に根拠はありませんが)
私は、気まぐれの飛び込みでしたが、窓口で簡単に券が取れました。

映画も原作も大好きな作品なので、見る側として無意識に、
目の前の舞台を二重にも三重にも自分の中で構成し直して見ていたから
楽しめたのかな、などと思ったりもします。
(あ、そう言っても、別に文楽を貶めたことにならないですよね、
本歌取りは日本の伝統ですから。)

文楽としてどうか、という議論がありますが、私は、不自然さは
全く感じませんでしたし、素晴らしい舞台を見て、その演じ手が偶々
人形だった、というだけです。

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# by tamon1765 | 2002-08-11 11:11 | 舞台の話 | Trackback(1) | Comments(1)

雑司ヶ谷鬼子母神で

平成13年のこと、5月16日の「雅子妃殿下ご懐妊の可能性」
の報道に接し、翌17日に都電に乗って雑司ヶ谷鬼子母神へ
お参りしてきました。(鬼の字、第一画目は無し)
 こちらは、川上不白さんに縁があるとのことですが、興味深い
ものを拝見しました。

1.お茶のお釜がありました。
釜はなで肩切合せ鉄風炉で、中はセメントで固められていました。
雨曝しなので全体が錆で赤茶けているのが、ちょっとかわいそう
な気がしました。
その台座?になっている石には、「奉納 都流茶道 三世家元
荒木草栄」とありました。
私は、寡聞にして都流と言う流派を知りません。
さて、この石は割れて一部失われてしまったのか、建立の年代
の記述がありません。
連名の方の県名住所が旧字の縣の字なので、少なくとも戦前の
ものです。

2.「孤峰不白 一字一石妙経塔」がありました。
この石塔は、お約束の五輪の塔をみたすものでしょう。
表面には、「奉・宝・塔・一基」と刻まれ、その下は、
「南無妙法蓮華経」の石があり、台座となります。
その石の右には、「孤峰不白日祥居士 」別当日慈 」寛政辛亥」
の字が、左面は、無し。
裏面は、多くの字が記されてますが、私には読めませんでした。
そのなかには孤峰不白の文字もありました。
 そして、この「孤峰不白 一字一石妙経塔」を説明(?)・明示
する石は、9世宗雪、宗鶴、閑雪、不白会の名で昭和39年に建
てられました。
また、この塔字体は、寛政辛亥とあるので、1791年。不白さん
73歳だそうです。不白さんは、私には神田明神のイメージ
があったのですが、これで法華宗に帰依していたということが
良く分かりました。
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# by tamon1765 | 2002-07-23 23:57 | 川上不白さん | Trackback | Comments(4)

丸なる道理

表千家七代目如心斎の言葉(『茶話抄』)

  四角なる物の次第次第に丸なる道理、工夫あるべし

そしてこれについて、久田宗也宗匠は、

  この言葉は、間断のない稽古に私どもをいどませる
 力を持っていた。


と言葉を添えている。
どちらも、素晴らしい言葉ではないか。
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# by tamon1765 | 2002-05-14 23:24 | ことば | Trackback | Comments(0)

偉大な絵画に接するには

天心の「茶の本」には、
 遠州侯が、
 「偉大な絵画に接するには、王侯に接する如くせよ」
 と述べている、
とあります。(例えば、宮川寅雄訳、講談社文庫P56)
村岡博訳は全く同じ、森才子訳もほぼ同じです。

原文は、
The tea-master, Kobori-Enshiu, himself a daimyo, has left to us
these memorable words: "Approach a great painting as thou
wouldst approach a great prince."
です。

さて、この遠州侯の言葉の日本語原文は何でしょう。
何という書物で仰っているのでしょうか。
あるいは、逸話として載っている本は何でしょう。
ご存じの方、ご教授願います。
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# by tamon1765 | 2002-03-10 04:43 | 天心岡倉覚三さん | Trackback | Comments(0)

円相をめぐって

 平成13年初頭の東京松屋の不昧展のなかで、不昧公の書かれた円相とそれに
付随してお坊さんに送った手紙が、特に記憶に残っています。
 手紙の内容は、重要な禅語の一つである円相のなかに自分の名前を書いて良
いのか、変じゃないかとの相談です。確か、不昧公自身「何やらおかしき」と
手紙の中で書かれていたように覚えています。この展覧会のカタログが手元に
ないので、うろ覚えであり、もし間違っていたらご指摘願います。

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# by tamon1765 | 2001-10-05 06:49 | 雑談 | Trackback | Comments(1)

多岐亡羊

 こんな言葉を知りました。 「多岐亡羊」

意味は、学問の道が多岐に 分かれ脇道にそれやすいことから
真理に至る困難さ、或いは、迷って思案に暮れることだそうです。
(列子)
 また、荘子にも、似た話があるといいます。(私は孫引きです)
羊番をいいつかった下男2人が、羊に逃げられてしまった。
主人が叱ると、ひとりは本を読むのに夢中だった、
ひとりはさいころ遊びに没頭していた、と。
2人の行為は天と地の開きがあるが、目的を忘れた点は同じだ。
よって、教訓として、「真の目的を失うな」と言うことのようです。

 亡羊といえば、三宅亡羊は、宗旦四天王のひとりとも言われて
います。
他の3人は確定しているが、残る一つの席を争う人です。
この亡羊という名は、きっと、ここから取ったのでしょう。
儒者で宗旦に儒学を教え、宗旦から茶を習ったと言いますから、
中国古典はお手の物でしょう (儒学者なのに、老荘の「荘子」と
いうことがやや気に掛かりますが)。

ところで、上の荘子の話、一応、読書家の下男は、どんな本を読
んでいたのかな。意外と、「荘子」を読んでいたのでは、と下らな
いことを考え、ひとりほくそ笑みました。(アナクロか。)
いや、蛇足でした。
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# by tamon1765 | 2001-09-19 23:44 | ことば | Trackback | Comments(2)

戸田宗寛 『 茶之湯 』

裏千家即日庵の先代戸田宗寛宗匠『茶之湯』講談社・昭和55年
に興味有る一節を発見しました。

それは、門人老婆の夏の趣向p152にあります。
著者が、父のお弟子さんの杉崎宗周さんという方の小田原のお宅を
訪れた話です。
 この方は、「噂によりますと、益田鈍翁氏の信頼厚く、たまには、
水屋も務めたりしたような関係」ということです。
もちろん、近代の茶人と言われる人は、基本的に人にお願いして
お手伝いをやって貰っているのが当然なのでしょうが、このように、
水屋を務めた方がはっきりしているのも興味深いです。
そういう方にもっともっと多くを語って欲しいと思います。

ところで、この本は、読み返せば読み返すほど、深い本です。
この著者の人物の大きさを感じます。
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# by tamon1765 | 2001-08-28 13:04 | 近代の茶人 | Trackback | Comments(0)

二三斤のみ不申候ては

 最近読んで興味深かった言葉:
「茶の湯は、二十年は続けなけりゃダメだね。
1500グラムの抹茶を飲まなきゃ語れないね。
昔からそう言うよ。
今じゃ、お茶を昨日や今日始めた人がお茶をやっている
ことを自慢しているよ。」

原文は、
「茶の湯は二十年もいたし不申候はならず候、
極めを二三斤のみ不申候てはならぬと古よりは申し候、
今はきのふけふの茶の湯いたしぢまんいたし候」

                         (江岑夏書
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# by tamon1765 | 2001-08-26 22:25 | ことば | Trackback | Comments(0)

藤原銀次郎の流派は

川上宗順さんとそのお弟子さんをめぐる記録について

『緑茶の事典』柴田書店2000.4の藤原銀次郎の項に、
「表千家に学ぶ」とあります。
その根拠を知りたいと思いました。
この項の執筆担当者は、編集部とのことですが。
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# by tamon1765 | 2001-08-21 13:03 | 近代の茶人 | Trackback | Comments(0)

九代目團十郎は石州流

 長唄舞踊「鏡獅子」を見ていつも感じることですが、この曲は大好き、
この踊りも好き、でも袱紗を持って踊るくだりは大嫌い、です。
何故って、「袱紗を口にくわえないで!、袱紗で床をこすらないで!」です。
この弥生さん、この後、此の袱紗でお茶杓を清めるのですかね?と言い
たいです。不潔です。

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# by tamon1765 | 2001-08-20 12:43 | 舞台の話 | Trackback | Comments(2)

三柱鳥居の蓋置

七種の蓋置きの一つに、三つ人形がありますね。

その別バージョンとして、三柱鳥居の蓋置を見たような気がするのですが
家にある本をひっくり返しても無いのです。どなたかご存じ有りませんか?

 何故こんな事を言うかというと、京都は右京区の蚕の社と呼ばれている
木島神社を4月にお参りしてきたのですが、そこに三柱鳥居が存在するのです。
とても神聖な霊地であり、なんだか、自分自身が生まれる前のふる里のような
気がして(日本語おかしいですか?)、懐かしいというか、落ち着くというか、
いやいやそれ以上のなにものか、吸い込まれていくような感覚を味わいました。
ここは完全に時間の止まった世界です。

秦氏の神様であったろう事は容易に想像されますが、中村直勝先生も
「京都の神社の中で、最も深いものを包蔵する神社」
と仰っています。

 三柱鳥居の蓋置きに関する情報ご存じの方は宜しくお願いします。


<追加>20.10.9
参拝した江戸の三囲社の三柱鳥居へリンクを張りました。

<訂正>24.7.23
誤りを訂正します。
俗に三つ鳥居は、「三輪鳥居」(大神神社、牛島神社等)。
蚕の社、三囲社は「三柱鳥居」。
大変失礼しました
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# by tamon1765 | 2001-08-18 19:56 | お道具とお茶室 | Trackback | Comments(0)

川上宗順のお弟子さん

 『川上不白茶中茶外』を見ますと、
川上宗順の弟子の代表として、
馬越恭平、益田鈍翁、藤原暁雲、山下かめ、野崎幻庵、
藤田岡県の6人の名が記されています。

川上宗順さんについての記述を捜すために、
・藤原銀次郎『私のお茶』s33講談社、
・藤原銀次郎『思い出の人々』s25ダイヤモンド社
をひっくり返してみました。

さて、暁雲藤原銀次郎の本には、
 ・私のお茶の先達は、...益田鈍翁だ。
 ・(自分は、益田鈍翁の)不肖の弟子
 ・本格的な稽古などする時間もなく、又してみようと
  いふ気もなかなかに出なかった。
  ただ一度だけ京都出張のみぎり、裏千家の家元について、
  わずか一週間たらずの指南を受けたことがある。
以上の記述は見出せましたが、藤原自身は川上宗順について
言及していません。

また、『自叙益田孝翁伝』にも、川上宗順さんに関する記述
は見出せませんでした。

教えた側と教わった側にズレがあるというのは、寂しい
ことです。
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# by tamon1765 | 2001-08-18 12:57 | 近代の茶人 | Trackback | Comments(0)

天心の抹茶

岡倉天心は、私たちにとってまず、『茶の本 (明治39年公刊)』 と
いうことになります。が、彼は、お茶(抹茶道)の先生について正式に
稽古をしたことは無いようです。
 では、その知識の源泉は何か、という興味が生じます。

結論から云うと、妻の基が、江戸千家不白流の石塚宗通に習っています。
 啓草社の茶湯手帳に依りますと、この石塚宗通さんは、石塚流(不白流
石塚派) の4代、明治41年(1908) に84歳で亡くなられた不染庵という
ことになるでしょう。
 計算すると、この宗匠の生まれは、文政7年(1824)。
天心が基を娶った明治12年(1879)には、この宗匠は55歳です。

ところが、この基子さん、ヒステリーを起こして天心の卒論 (つまり
天心は学生結婚なのです) を破り捨てたと云う方で、私の中ではどうも
お茶と結びつかない方であります (マア、余計なお世話ではありますが)。
彼女は、大岡越前守の縁者というから、元々は天心と同じ武家の出では
あります。
ならば、少女時代に習ったのでしょうか。
と言っても輿入れは17歳です。先に書いたとおり、この時宗匠は55歳。
はたして、宗通に習ったのは何時なのでしょう。

 ちなみに、卒論 「国家論」 が破り捨てられたおかげで、美術に携わる我らが
天心が誕生したのですから、基子さんに感謝しなければいけません。

さて、その後、根岸の家 (明治23年冬から) の時代に、天心らは
日本婦人の婦徳を養うことを目的に 『清迎会』 という婦人団体を組織し、
そこに茶の湯の指導者として天心が、石塚宗通を招聘しています。
ここから、明治23年 (この時宗通66歳) 以前から、二人ののつきあいが
確認できました。
 これは、岡倉一雄 『 父天心をめぐる人々』 にあり、一雄氏は 「 変わり者
の石塚宗通 」 と言っているのが愉快です。
きっと魅力的な宗匠だったのでしょう。

立ち止まって考えると、妻基以上に、天心自身がヒステリーの人であり、
且つ又、それをエネルギーに大きな仕事を成し遂げた人と思われます。
茶の本を読むと当然かも知れませんが、お点前の動作についての記述が
ありません。
果たして、天心自身どんな風に抹茶を点てたのでしょうか、
彼のこと、人を驚かすような事をしていたのでしょうか、
想像は膨らみます。
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# by tamon1765 | 2001-08-17 12:14 | 天心岡倉覚三さん | Trackback | Comments(0)

川上宗順さん

 昔の東京では不白流が盛んで、偉い先生がいたというお話しです。
その方の名は、川上宗順です。

 林左馬衛先生の本 『 茶道史の散歩道 』 を開いてみました。
その本には、宮崎晃蓮さんの言葉で、
  「(明治・大正時代の東都では、)宗偏流も遠州流もありましたが、
   不白流ほどお盛んではありませんでした。」(偏はぎょうにんべん)
とあり、林先生自身 「お茶の先生では、浜町のほかに、どんな方
がたがきこえておられたのですか。」 と質問されています。
 つまり、浜町さん(不白流の川上宗順) を当時の有力な茶の宗匠と
見なしているということになります。
そして、その弟子として、「馬越恭平、三井さん、益田さん」 が挙げ
られています。
三井誰か?、益田兄弟のうちの誰か?は今後の課題にするとして、
近代のお茶を担った、大物ばかりではないですか!

さて、『 馬越恭平翁伝 』(昭和10年発行)を見ると、川上宗順を
ちゃんと自分の先生として遇し記載しています。曰く、
 ・当時東都茶界に指導的大勢力を有していた川上宗順宗匠が、旧習に
  泥んで容易に名器を使用する事を許さず、門人中に名物茶器を購入
  せんとする者あれば頻りにこれを諫止した。(p339)
 ・江戸千家流にして一種の見識を持し、茶礼の教授方が極めて厳格で
  あった。(p346)

  ちなみに、林先生の本の中で、宮崎晃蓮は川上宗順を
 ・人が立派な方で、九州と四国にも流儀をひろめられ、遺跡がいくつも
  残っています。(p147)

これらの話しから、見識を有し、弟子から慕われる宗順先生、単なる
道具茶の実践を許さない方のようです。
偉い方だったのでしょう。

ところで、私と流儀違いとはいえ、お名前を現在ではあまり伺うことが
無いのがちょと寂しい気がします。
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# by tamon1765 | 2001-08-17 03:24 | 近代の茶人 | Trackback | Comments(0)

渡辺保さんのお祖父さん

古本屋で、演劇評論家の渡辺保さんの本(書名は忘れ
ました、随筆集の初の本だとか)を立ち読みをしました。
すると、驚くべき事が書いてありました。
彼のお祖父さん、茶道の家元だというのです。
「どうも、孫の私に継がせたかったらしい、が、興味が
なかったので一度も習ったことがない」
というような事をご本人が書かれています。
何という流派でしょう? 
とても興味があります。
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# by tamon1765 | 2001-06-21 23:50 | 舞台の話 | Trackback | Comments(0)

元禄時代の若者向マニュアル

 元禄時代の若者用の読み易いマニュアル(生活便利事典)がある
というので電車の中で眺めています。
ちなみに、現代若者用のマニュアルでは、私はとてもついていけそう
もないので...。

書名は、
  『 女重宝記・男重宝記 』 社会思想社の現代教養文庫1507
です
が、これがとっても面白い、というより、知らないことばかりで、
コリャためになるわいという代物です。
 また、興味深いことに気がついたのですが、「女重宝記」には、
お香のことがあります(四之巻:香をきくこと付けたり十種香、
掛香の名方、伽羅の名ならびに薫物の方)。
しかし、お茶について触れられていないのです。
「女重宝記」の本文一之巻には「女中たしなみてよき芸」として、
茶の湯する事、とはあるのですが、その説明は無いようです。
僅かに二之巻 「女中万喰方の作法(じょちゅうよろずくいかたの
さほう)」のなかに 「茶のみ様」 があって、その中身は
  「茶熱きとき啜りのみ、茶碗など振りまわすこと有る
  べからず」
で、一体誰が茶碗を振り回すのダイ?と吹き出してしまいました。

 一方、「男重宝記」には、巻之三に茶湯立て様喫様...と立夏
の事...とあるのです。
さらに、巻之四に菓子の類として蒸菓子の名凡二百種、干菓子
の名凡五十種...と。確かに凄い!
お菓子の名前の羅列です。
めまいがしそうだ。
お茶は男のものだったと言いますが、お菓子の情報量には参り
ました。
香が女で、男は花・茶・お菓子と言う区分が、なんだかとっても
不可思議で、おかしいです。

さてさて、元禄の若者(男)はこのマニュアル本を見て、お菓子
の名前を覚えたのでしょうか?(笑)
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# by tamon1765 | 2001-05-09 23:29 | | Trackback | Comments(0)

五徳の由来

フトこんな話しを思い出しました。
(詳しい話しは忘れましたが.....)

   *****

 昔々、あるところに一匹の犬がいました。
また、片足の人(あるいは、生き物)がいて、たいそう困っていました。
その犬は、困っている様子を見て、神様に、
 「私は足が四本あって、一本無くなっても、それ程困らないだろう。
この一本の足をあげたいものだ」
と発心しました。

 神(八百万の神のどなただったやら...)は、この心を有り難く
受け入れ実現しました。
 そして、神様は、その犬に
 「おまえは、足は一本減って、三本足となった
  が、その徳は一つ増えたので五徳と呼ぼう」と。

その犬が今の五徳となって、永遠のものとなった。

   *****

というウソのような話しなのですが、若い時に読んで、感心しな
がらも、読み流してしまいました。
何という本で誰が書いたものなのかちゃんと書き留めておかな
かったことが悔やまれます。



<23.2.1>題名を、「語源」から「由来」に直しました。
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# by tamon1765 | 2001-02-28 23:08 | お道具とお茶室 | Trackback | Comments(1)

末広り

素晴らしいお茶室をお持ちのSさんの鎌倉のお屋敷に招かれた時に、
待合いの手あぶりに、何やら字が.....、
何と書いてあるのか、と話題になりました。
末広がりのお目出度い文句ということで、お調べする約束をしました。
このうちのどれでしょう。
その後そのお道具を拝見してないもので。


●茂山千五郎家本 小学館日本古典文学全集狂言集S47.10.15 P79
かさをさすなる春日山、かさをさすなる春日山、これも神の誓ひとて、
人がかさをさすなら、我もかさをささうよ。げにもさあり、やようがり
もさうよの、やようがりもさうよの。

●鷺賢通本 朝日日本古典全書狂言集上S28.5.175 P119
 「傘をさすなる春日山。」これも神のちかひとて人が傘をさすならば、
「我も傘をささうよ。げにもさあり、やようがりもさうよの。やようが
りもさうよの。」

●天正狂言本 朝日日本古典全書狂言集下S31.1.20 P247
 御笠山御笠山、人が笠をさすならば、我も笠をささうよ。

●狂言記(和泉流) 有朋堂文庫狂言記上T15.7.17 P104
かさをさすなる春日山、かさをさすなる春日山、これも神の誓ひとて、
人がかさをさすなら、我もかさをささうよ。げにもさあり、やようがり
もさうよの、やようがりもさうよの。

●大蔵虎寛本 岩波文庫S17.7.30 P98
傘をさすなる春日山春日山。是も神の誓いとて、人が傘をさすなら、
我もかさを指うよ。げにもさあり、やようかりもさうよの。やようかり
もさうよの。

●山本東本  岩波日本古典文学大系狂言集上S35.7.5 P59
かさをさすなる春日山、かさをさすなる春日山、これも神の誓いとて、
人がかさをさすなら、我もかさをさそうよ。げにもさあり、やようがり
もさうよの、やようがりもさうよの。

●番外「長唄・稚美鳥末広(わかみどりすえひろがり)」
傘をさすなら春日山 これも花の宴とて 人が飲みてさすなら 我も飲み
てさそうよ 花の盃 はんな傘 実にもそうよの やよう実にもそうよの
実にまこと。
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# by tamon1765 | 2001-02-28 22:09 | 能楽を楽しむ | Trackback | Comments(0)

「 雲林院 」 の今

 平成12年11月に京都で、たまたま?「雲林院」へ赴いたので
その話しを一寸します。

残念ながら、我々の想像しているものの影も形もありません。
地域社会の人々のお参りする、京大坂の街角のお寺さんの風情です。
私もその折り初めて知ったのですが、広い雲林院の敷地を荒廃後、
後醍醐天皇が大燈国師に下賜なされて大徳寺が出来たとのことです。
実は私、その時は、元々、大徳寺参拝が目的だったのです。
今は、大徳寺の山外地方大徳寺派寺院ということです。

奉納の額には、
「紫の雲の林の寺ならば、実に極楽の亭主なりける」
とありました。全て仮名です。
但し、「げに(実に)」か「けふ(今日)」か、私の読解能力では不明。
亭主は「ていじゆう」「ていしやう」?で私の考えた当て字です。
正しい歌をご存知の方、よろしくお願いします
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# by tamon1765 | 2001-02-08 12:23 | 能楽を楽しむ | Trackback | Comments(0)

気ま~まな独り旅


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