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私は、「井筒」をどう読んだか(4)

(ブログは便利なものだ。自分だけのメモを、非公開として登録しておけば、
パスワードを忘れなければ、外のネット可能なパソコンで見ることが出来る。
極端な事を言えば、我が家が火事になって失われても、データは残るわけだ。
以下、昨年7月10日に、メモしたものだ。その後、歌舞伎の脚本が見つか
らず、進まなかったもの。いまだに参照できないが、ひとまずお開きとする。)



 人が何かを感じ、思う。心が動かされる。
 そのメカニズムは解明できても、何故そうなるなるのかは、永遠に解き明か
すことは出来ない。まさに神秘である。既に科学の対象とする分野ではない。
 私の出来ることといえば、どういうことから感動が起こるか、心の奥底を突き
動かすものは何か、というを考えることである。

 井筒の前シテである里女が感情の変化を起こす瞬間は、ススキを見つめる
瞬間であり、それがきっかけで心を開くと、先に述べたとおりである。
そして、この曲の中で数少ない感情を示す言葉の表出される最後の場面では、
シテは、井戸をゆっくりと覗き込む。
 では、このシテである井筒の女は、井戸の中に何を見たのであろうか。
舞台上では、恋人の形見である直衣を着、男装になった己を井戸の水鏡に映し
て見るという設定である。詩章では「見ればなつかしや、われながらなつかしや」
とある。
解説書では、恋人の衣装を着ている自分を見、相手を懐かしんでいる、という
説明が多いように思う。つまり、我ながらと意識はあるが、そこに相手の姿を見
ている。
われながらを「我がことながら」と解釈すれば、恋人といた頃の若い自分を懐かし
むと、読めるかもしれない。
ここでは、世阿弥のお得意の水鏡という演出法によって、いずれも、自らの姿を
映していることが前提となっている。

 さて、そうなのか、あえて問題提起してみる。
 はたして井筒の女は自分の姿を映すことが出来たのだろうか、と。
何故ならば、杜若や実方のような、直ぐに我が身を映して見ることの出来る川や
湖の水鏡とは違って、そこは深く薄暗く狭い井戸である。

 一方、歌舞伎に目を転じると、井戸とは霊界へ通じる装置として登場する例が
ある。「実盛物語(源平布引滝)」では、仮死状態になった小万を蘇生させるため
にすることは、彼女の肩を揺すったり耳元で呼びかけることではない。
井戸に向かって名前を連呼するのである。
魂は既に地底世界(黄泉の国)へ行き、ここに残るは魄のみである。井戸とは、
まさにイザナギの命が戻り給うたヨモツヒラサカの入口なのであろう
 他の例は、鎌倉三代記であるが、今ここで書かない。(本文確認の上、
後日追加するつもりだ)。

 また、井戸は、崇高・神聖なる装置としての性格も有す。
それは、若水で知られる、東大寺二月堂修二会を思い浮かべれば分かる。
この二月堂の井戸は地下水脈で若狭まで通じていると信じられている(いや、通じ
ている)。まさに、水の神聖性。
茶道家元の年明けの最初にすることが、若水汲みであることも、この伝統の生きて
いる証拠である。
 

(ここでとんでもない飛躍をするが)
以上のように、井戸とは、人智を超えた神秘性を持つ。
井戸の奥底に見えたのは、おのれでは無い、恋人その人だったのではないか。
井戸は、この世とは違う世界と繫がっており、そこから行き来の出来る装置である。
恋人業平は、シテの元へ赴いてくれた。
だからこそ、シテは狂乱し喜び、舞ったのではないだろうか。

その方が、見ている私としても、思いが増す。


● 前の記事
私は、「井筒」をどう読んだか(1)
私は、「井筒」をどう読んだか(2)
私は、「井筒」をどう読んだか(3)


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by tamon1765 | 2009-01-28 12:58 | 舞台の話 | Trackback | Comments(2)

「山城少掾自伝」

「山城少掾自伝」読むと、

私が第一に心がけたことは買い集めた院本を
何回も繰り返し読むことです。難しいものでも
十回も読むと、作者はどういう気持ちでこの
曲を書いているのかということもわかって
きますし、これをわれわれが床で使っている
五行本と比べると、原作からどういう風に変化
してきているかということも自然とわかります。


とある。普段、十回も作品を読み直さない私には、
いい戒めではある。

それにしても、理智の人のイメージの強い山城が
多くの色ざんげを語っているのが、意外の感がする。
そして、なにより面白い。
そのような状況は、時代精神、当時の風潮、雰囲気
があるとはいえ、人はやはり環境、生まれ育ちなの
であろう。その人自身がどういう文脈の中にあったか、
ということなのだ。

このようなことを経てきたから、艶のある語り(山城
に関し、このような形容は目にしないが、私に言わせ
れば、艶がなければ義太夫なんて語れない)ができた
のであろう、とも感じた。


<27.8.4>一部書き足し

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by tamon1765 | 2009-01-27 08:39 | 藝能を楽しむ | Trackback | Comments(0)

お稽古を始めた頃

お立ち寄りの皆様、すみません。
相も変わらず、ネットの出来ない生活環境にあります。
このところ、私自身イライラ状態なのですが、
ブログが出来ないことによるストレスなのだなあと、
ようやく気が付きました。
何とかしたいです。よって、今日も外から。

さて、昨夜、お茶の社中の先輩に会った。
久しぶりである。
私の年下ではあるが、先輩で、始めた当初手取り足取り
教わった、私にとって先生である。
少し前に、このブログのこともお伝えしておいた。

店に入って席に着くなり、早速
「えらい、えらそうに書いているわねえ」
「確かに勉強しているけど、上からの目線よねえ」
と、はっきりと言われてしまった。
ブログなるものをはじめて読んだそうだ。

先生の○寿のお祝いの茶事に八寸をやって欲しいという。
お茶のお稽古をずっとお休みしている私、
お稽古して無いから、私なんて。。。と言っても、
「勿論、あれだけのこと書く人だから、お稽古やらなく
たって充分出来ますよ、ネー」と皮肉られてしまった。
確かに、私は酒呑み要員、いや、呑ませ要員。
いつも八寸をやっているような気がする。

二言目には、「いったい誰に教わったと思ってんの!」と、
今でも言われ、私には頭の上がらない人だ。
始めた当時、私、「何でこうしなきゃいけないの?」「何で
右じゃなくて、左なの?」「何の意味があるの?」と、
幼稚園児状態だった。
「つべこべ言わずに、だまって言われたとおりにしなさい」
と言われ続けたことを、今、赤面しながら思い出す。

この土・日は、先生のところへご挨拶に伺うことにしよう。


<21.1.24> 心ある方から、「言われたとおりにしない」
ではなく、「言われたとおりにしなさい」では?
との指摘を受けて、訂正します。感謝します。
仰るとおりになりました。「...の2乗」っていうお話です。
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by tamon1765 | 2009-01-23 12:55 | お点前 | Trackback | Comments(1)

奥野信太郎 「町恋の記」

奥野信太郎 「町恋の記」 を手にとる。

本当の大人とでもいうべき余裕ある方の随筆は
楽しい。
但し、やや耳の痛い話。

昔は学に志してまず素読に徹し、階梯を上って、
ようやく作詩作文にいたるのを、学ぶものの常道
とした。書を読むことと詩文をつくることとは、
学問の両輪として一日もゆるがせにすることを
許されなかった。
現代は書を読んでこれをただちに論じ、その論ずる
ことのつまびらかなことをよしとして、作詩作文
はまったくこれを廃して顧みない。門を過って
堂に入らないというべきであろうか。
(p300)

自分自身を省みると、別に学に志すといった大層
なものではないが、好き勝手に偉そうな講釈を
たれていることを恥じるとともに、門をくぐって
堂に立ち入っていないという勿体無いことをいつも
しているのかな、とやや無念に思う。
ところで、「もんをスグッテ」と読むのだろうか、
私の使わない言い回しも興味深い。


なんでも百年に一度の大不況とやら、もの心ついた
頃から、紅旗征戎我がことに非ずで生きてきた私も、
対岸の火事といかずその火の粉を浴びている。
元気になるような一節があったので、新年の引用と
しよう。

世のなかがなにか大変動にぶつかって、一切合財
めちゃくちゃになっても、人間というものはふしぎ
なもので、かならずいつのまにかもとのように復元
する性能をもっているものである。あるいはもと以上
に盛大にすらする。(
p314)

それにしても、グローバルとやらは、はなはだ不便な
ものであることよ。


奥野信太郎「町恋の記」三月書房、昭和42年。
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by tamon1765 | 2009-01-17 14:20 | Trackback | Comments(0)

新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。
と、既に七草も済み、今日は初薬師ですか。
実は、年末からインターネット不通となってしまい
この体たらくです。
大変失礼致しました。
まだ復旧の見通しも立っておらず、今現在、余所様の
もとからやっております。

ネットの出来ないもどかしさや喪失感と同時に、
開放感も有りますね。

そんな不思議な感覚を楽しんでいます。
訪問いただいた方、コメントいただいた皆さんには
すみませんです。

簡単に、感じたことをコメントしておきます。

お茶: 趣向は悪くない、ある意味、方向性や主旨の無いもの
   は存在しない。良くないのは作為。自分のなかで
   この二つが混同していたように思う。
お能: 見えないものが見えるようになるには、準備が必要。
  さらに、どれだけ登場人物に、思いを篭められるか。
  能楽師と同じ程度か、それ以上にこちらも研ぎ澄ますこと。
音楽: 静かにそのまま身を任す楽しさ。
石: 止まっているものの動きを楽しむ。
すべて: 心の持ちようで見え方が変わる。
以上




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by tamon1765 | 2009-01-08 20:26 | 雑談 | Trackback | Comments(5)

気ま~まな独り旅


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