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組合せの建水の拝見

組合せ点ての建水の拝見
今日始めて訪問したブログですが、
you*a*38さんの「海の月の独り言」という素晴らしい
ブログに刺激を受けて、思うことを書きます。

お題は、組合せ点ての建水の拝見です。
はっきり言って、私は一度もやったことは有りません。
さらに言うと、そういうことがあるという記憶もありません。
そもそも私の組合せ点てはあくまでお稽古であって、実際に
茶会・茶事でやったこともないからでしょう。
you*a*38さんと同じように、宗完宗匠(現宗心宗匠)の本
を開いてみました。
「建水は、本来は拝見に出すと言う道具ではない。」の一文に
チャッカリ線が引いて有りました(苦笑)。

なお、you*a*38さんも仰るように、起源に関しては、
コノ組合セハ江岑宗左、紀州候ヨリ瓶蓋ノコボシヲ拝領ノ時ニ、
初メテ用ヒラレタルコト也。コレソノ濫觴也

と引用されています。(「茶道小免八箇条」)

さて、ここからが、私の考えです。
現在、茶道をやらない人は「何故あんなに細かく手順が決まって
いるの? 意味あるのかしら? 美味しく出来て美味しく飲めば
それでいいのではないか」と考えているでしょう。
一方で、熱心な方は、誰が(正客かお詰めか)どこへ(拝見の
返す定位置か茶道口か)どのようにして返すのが宜しいかと、
追求されます。
ちょっと、ギャップが有り過ぎるかな、と私は感じるわけです。

このお点前、といいますか、所望された建水の拝見は、本来
有る事ではないと思います。何故なら、建水はゴミ箱です。
人の家へ遊びに行って、「おお、このゴミ箱いいねえ、ちょっと
よく見せて」というのは有り得ない。
殿様拝領の凄いもの----だから、せめて亭主席入り前に、点前
座へ飾る(つまりそれが組合せ)、ということではないでしょうか。

とすると、敢えて正客から拝見の所望を受けた場合、その
扱いはどうするのか、ということになります。
私の考えは、本来有りうべからざるものは、その時に対応すれ
ばよい。それも、失礼と粗相のないように。
そしてそのための、普段のお薄のお稽古ではないでしょうか。
ものの扱い、出す位置(お客とものと自分との距離のおきかた)
等、普段の稽古が身に付いていれば、何ら怖れることはない
のでは。その時に考えて動けばよいのではないかしら、
と思いました。

なお、以上、これはあくまでも一愛好者である私の個人的
な考えで、私の師の考えでも宗匠の考えでもありません。
(と言うより、お伺いを立てたこともないですし、どのように
 お考えかは存じ上げません。)
以上をご承知おき願います。
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by tamon1765 | 2008-09-28 23:21 | お点前 | Trackback | Comments(0)

濃茶を一柄杓で点てる

江守奈比古氏に面白い説があったので紹介します。

濃茶は、一度湯を少量注いで茶を練り、その後湯をたして
お茶を飲み頃にのばすという点て方が殆どと思います。
ところが、遠州流には、一柄杓で点てる点前があるそうです。
これは、ダマの出来ぬよう点てるのが難しいですが、
上手に点つと香が残って実に美味しいといいます。
これを、古風な点前であり、利休のやり方だったのでは
ないかと仰っています。


この説の正しさもその根拠も詳しくない私ですが、
是非今度一柄杓での濃茶に挑戦してみます。
(現在、体調不良のため、あまり濃茶を欲しない)。

さて、それに続けての文章は、至極まっとうであり、
独りで行う稽古についての一つの答えがあります。

先づお茶をたてるには自分でたててみて自分で飲んでみる
ことが肝心です。自分の嗜好に会うようにお茶がたてられ
れば、人に差し上げるお茶も自然に先方の気に入るお茶が
たちます。
頭で考えないで、手先が自然に動くように何千回か何万回も
練習することが必要です。稽古とは頭で考える先に体(又は
手)が動くように体が憶えるまで動作を繰返すことです。


<27.12.8>リンク追加







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by tamon1765 | 2008-09-27 20:37 | お点前 | Trackback | Comments(1)

利休さんゆかりの椿

西方尼寺(真盛山西方寺)=築地御所本光院門跡に、
北野大茶会の際に、利休さんが使った井戸があるそうです。

そして、今、五色八重散椿の大椿があります。
その木は、樹齢400年とのことです。
厳密に計算して、1608年に芽を出したとすると、利休さんとは
かすってもいませんが…
そして、その椿は、椿寺にある利休さん手植の散椿と同種だ
というのです。

利休さんとゆかりがあるのか無いのかは分かりませんが、
是非、見てみたいものです。



<20.9.30>「かする」の意味の勘違いを訂正
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by tamon1765 | 2008-09-26 07:57 | 利休さん | Trackback(1) | Comments(0)

思召す外なり

茶湯と申は、思召す外なり。
事に物に、坐するにも茶の湯、
立にも、茶の湯、
寝るにも茶湯有るべし。

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by tamon1765 | 2008-09-25 00:49 | 『普斎茶道伝書』 | Trackback | Comments(1)

松風の音を作ること

釜へにえ付る事一向不好儀也

「煮へ付けること」つまり、敢えて、煮え音を
作ること----これは、釜の底に鉄の塊をつけて、
松風の音を作ることであり、今では常識?的な
釜の製作のように聞いている。
しかし、これさえも、普斎さんは許さないのだ。
彼に言わせれば、まさに、
「さばしたるは悪しし」
「かないたがるはあしし」
というわけなのであろう。
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by tamon1765 | 2008-09-24 23:23 | 『普斎茶道伝書』 | Trackback | Comments(1)

蟻通しの茶杓

不白筆記の一節
(私の現代口語訳=超訳)

  &&&

蟻通しの茶杓は、出来上がった時に、冬木宗五が
とりわけ欲しがった。それに対して、表千家六代目
覚々斎宗匠は、とても譲れません、私の膝の高さ程
金を積んだら考えましょうと断られたそうだ。
その後、大金を包んできたが、それでも譲られなかった。
そして、京に戻る際に、息子の如心斎宗匠ヘの
お土産とした。
またその後、紀州の殿様がこの茶杓の噂を聞いて
ご覧になった。暫くは、殿様のもとに留まったが、
覚々斎宗匠は献上せず持って返ったほどの大切な
茶杓なのである。

わが師匠の如心斎宗匠は、このお茶杓を、茶筌飾り
で使って、お茶を下された。
この時の茶入れは、祖母懐の大蓋であった。

   &&&



<20.9.21>間違い訂正
<24.4.17>書き入れ、「息子の」部分
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by tamon1765 | 2008-09-20 10:46 | 茶杓 | Trackback | Comments(0)

万倍も努力しなければ

不白筆記の一節
(私の現代口語訳=超訳)

    &&&

家業だからといって上手くいくものではない。
私が思うに、ご先祖様のおかげだなどと言って、
今楽をしているからこそ下手なのだ。
これは、先祖への不孝である。
どうやって先祖の恩に報いるべきだろうか。
それは、先祖のご苦労はどんなに大変だった
ろうかと思い致すことだ。
ご先祖が人一倍努力していたのならば、その
末裔である者は、一万倍も努力しなければ、
追いつかない。
それを忘れて、おのれの生まれを誇ったり
先祖の自慢ばかりして、今現在の自分の下手な
状態を忘れて楽をしていることは、不届きなこと
この上も無い。
昔の人は、道と徳に厚かった。
しかし、今の人は薄い。
このようなわけであるから、昔の人の万倍も
苦労を重ねないと、道に到達できない。

   &&&

徳に薄く、道遠い自分を実感する一節である。
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by tamon1765 | 2008-09-19 00:19 | 川上不白さん | Trackback | Comments(1)

即翁畠山一清「熱と誠」

荏原製作所 畠山一清「熱と誠 茶の精神を貫いて」

この本で、畠山さんがどういう方かはおおよそ分かった。
東大工学部出身、恩師のイノグチ式ポンプの実用化を
成し遂げて、荏原製作所の今を築く。

謹厳実直な方なのであろう。
加賀七尾城主の末裔というだけあって、お髯も立派な、
威厳ある武士の風格だ。
失敗談といったユーモア溢れるような本ではない。
茶道に関しても、エピソードがあるわけでもない。、
茶道観も正統派だ。
もちろん、いまの畠山記念館でもわかるとおり、成金の
人ではない。真面目な方だ。

ちなみに、白金のこの地は元薩摩藩下屋敷、寺島宗則
伯爵屋敷後だったそうな。お隣の般若苑とは、垣根といえ
ないような垣根(竹の組んだもの)があったが、これは、
般若苑との取り決めだったとのこと。その般若苑も
どうなったことか(もう何年も行っていないので)。

そして、能に関しても凄い人だったのだ。
なにせ一時期次期家元と目された松本長師を、震災後
三年間自宅に養ったというだけあって、宝生流の免許皆伝を
74歳に受け、後、社団法人宝生会名誉会長に就任(80歳)。
掲載されている写真も直面の鷺である。
兎に角、なんにでも誠実に全力投球する人だったのであろう。
文化勲章選考委員も歴任した。

はっきり言って、本としてそれ程、面白くはなかった。
おそらく、会社の案内或いは創業者の顕彰と社風の高揚の
ための配布用の本なのであろう。
渋川哲三なる方による解説もあるが、ビジネス面の解説と
いった趣。ただし、「一人一業に徹する」といった言葉があり、
この点、頼もしく思った (現代では、このような考え方は
無くなってしまっている)。
分類は、ビジネス書であろう。
現に奥付や外裏表紙に、値段表示はない。
著者名にも社名が冠されている。

データ :ダイヤモンド社、昭和55年4版。

今後、近代の茶人のいままで読み散らかした本を一言でも
いいので、感想を遺していこうと思う。


<20.9.16追記>文面のテニオハ・接続詞等を少々訂正。

<20.11.22追記>20日に畠山記念館に訪れました。
昔からの社員さん(即翁生前に入社)の方がおられたので、
お尋ねしました。この本は、社員向けの本で、入社すると
全員これを読まされたそうです。
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by tamon1765 | 2008-09-15 11:30 | 近代の茶人 | Trackback | Comments(2)

新作能「黄金桜」

テレビをつけたら、丁度能の始まるところであった。
(先程の21時)
演目は、新作能「黄金桜」
作は、林望。シテは、津村礼次郎。
桜で有名な、東京都小金井市の市制30年を記念しての新作能。
小金井公園での薪能は、もう何年も続いている。
(注に曰く、小金井公園は都下では、大きな都立公園であり、
その中には、都立たてもの園なども有り)

さて、雨だったのだろうか、市民会館(おそらく)で上演。
その背景が単なる白い幕。
なんだか安っぽく感じて、ここでやや失望。
布でいいのだから、松の鏡板の絵位用意して欲しいと思った。
私は九皐会を見ないので、シテ地謡共に馴染みがない。
三役は、松田・新九郎・光雄・助川だったと思う。

筋は、前シテ桜守の元に、その桜を移植しようとワキ勅旨(家来?)
が来、止められ、後シテ桜の精が中ノ舞を舞う。。。。?
そんな感じ?
はっきり言って、詩章が殆ど聞き取れず、見ている私が自分で
物語を作っている状態(苦笑)。
桜の話を見ながら、家の外では自然の音響で、こおろぎや鈴虫
の音が。。。。。(これまた苦笑)
私は、松虫を見るべきではないか、終わったら見ようなどと
不遜なことを思いながら見てしまった。

知らない能作品を見ることの距離感というものを実感した。
能楽堂へよく行っていた頃は、事前の予習と詩章の持参を
欠かしたことがないので、このような状況はめったに体験しな
かった。今一つ分からないものを見ることは、忍耐力を試され
るし、分かって見ることに比べると、当然ながらつまらない。
一方、最近この音に接していなかったので、そのあたりが楽しく
感じられた。

作品としては、実際の処、どうだったのだろう。
再演はありえるのか。
無理解で見ていた私にはコメントのしようがないが。

宿題は、小金井を「黄金」と書いた歴史はあるのか調べること。


<20.10.7追記>
『江戸名所花暦』 金井橋 :
この桜は、元文年間台命によって和州吉野山、および常州桜川の種を植ゑ
させられけるが、いまは何れも大樹となりて、開花のとき、金橋(こがねばし)
のうへより是をのぞめば、岸を挟む桜、繽粉として前後尽くるところをしらず、
実に一奇観たり。


<20.10.9追記>
『江戸名所図会』巻之四  金井橋 :
此地の桜花は、享保年間郡官川崎某、台命を奉じ、和州吉野山、および
常州桜川等の地より、桜の苗を植ゑらるる所にして、其数凡そ一万余株
ありしとぞ。 (略) 就中金井の辺は佳今日にして、爛漫たる盛りには、
両岸の桜、玉川の流れを挟んで、一目千里、前後尽る際をしらず、ここに
遊べば、さながら白雲の中にあるが如く、蓬壷の仙台に至るかとあやしまる。
最も奇観たる故に、近年都下の騒人韻士、遠を厭はずしてここに来り、遊賞す。

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by tamon1765 | 2008-09-15 00:16 | 舞台の話 | Trackback | Comments(6)

俗な視点

古筆でいえば行成は異論のないところですが、あのひとは
佐理よりも道風をこのみ、わたくしは佐理の峻勁な書風に
惹かれます。
墨跡では一山一寧や夢窓のおだやかな書をあのひとは推
していました。夢窓が時の権力にとりいった政略家だと
する通説には反対で、それは書にそんな俗気の感じられ
ないというだけの理由でした。近江の国に永源寺を開いた
寂室元光のことは知りません。一休のあのはげしい気魄
の書は、なんだかすこし異様な気もしますが、わたくしは
どちらかといえば好きなのです。


上田三四二の小説「橋姫」の主人公(女性)のつぶやき
である。小説ではあるが、このような考えが書かれている
ということは、この考えを肯定否定に関わらず、作者の中
でこのような考えが存する、ということである。

吉本隆明が、「ただの俗物」と言い「俗っぽい字」と言った、
禅の墨跡に対して、上田は、もっと素直な目で見ている。

別に吉本を批判する気もないが、他を俗と見るその視点
こそが「俗」のような気がしてきた。


<20.90.12追記>
作者上田三四二は、昭和64年に亡くなられたが、病気
の再発したのが、昭和59年。その前に、永源寺開祖の
寂室元光について書く予定だったそうである。
それを知ってから小説に戻ると、作者は寂室元光について
ある思いがあり、架空の女性に 「(作者である)恋人は
寂室元光をかっているが、私はよくわかりません」 と
言わせている。次の作品の予告でもあったのだ。
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by tamon1765 | 2008-09-09 23:37 | | Trackback | Comments(1)

気ま~まな独り旅


by tamon1765
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