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客は茶の湯のワヅラヒ

茶の湯は客と云うものなし
却つて客は茶の湯のワヅラヒと古人も申され候
さればとて独り楽めとにはあらず
分限者のあさましき心には
道具何れも珍しき物ばかり出し申し候
善からん人のせぬ事なり
一二種かはりたるは数寄一人たる心なるべし


杉木普斎


皆さんはこれをどうお読みになっただろうか。

浅ましい心のある者は珍しい道具ばかり出したがって、
結局のところ、他人への自慢である。
だから、お客の存在は、茶湯にとって病気の元凶である
というのだ。
一種の極論である。
お客あってのお茶であり、お茶会であり、茶事だ。
そもそも、人一人で現在の茶の湯が成立したかあやしい。
コミュニケーションの中で発生したものであり、
連歌の座と同列に語られるとおりである。

もちろん、普斎さんも、そんなことは先刻ご承知。
    だからと言って、茶の湯は独りで楽しみなさいと言うわけ
    にもいかない
と記しているとおりだ。
それにしても、何故もっと中道で語らないのか、と
思わず感じる。
先日の宗旦さんの遺偈然り、利休さん然り。

ここで、おかしなことに気がついた。
もしかして、お茶をやる方って、本当に皆激しい人なの
ではないか。(。。。。もしかして、ですよ)
激しい人をひきつける何かが、お茶にあるのか。
それとも、お茶を始めると、心の奥底にしまわれていた激情が
顕わにされるのか?
もちろん、そんなこと分からないし、私の勝手な空想である。
ふと、自分の性格を振り返ってみた、ニヤリとするしかない。

<20.7.30追記> 普斎さんの本文以外の、私の感想部分を追加。
<20.9.12追記> 長闇堂久保権大夫は、「数奇をたしなまん人は
    ふたん茶独りたてましき物也」と述べている。今のような稽古茶
    という概念がないからであろう。これはこれで、至極まっとうな
    意見と思う。
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by tamon1765 | 2008-07-30 07:13 | 『普斎茶道伝書』 | Trackback | Comments(1)

簡単に茶室に模様替え


おのれのお茶室を持つことは、お茶をやる人にとって、ひとつの
夢でしょう。と言っても、私は、とうにその夢を捨てていますけど。
ま、自分の家に、そのときそのときで、区切ってやればいい
ではないか、と言い聞かせて。

ところで、囲いとも言うべき、便利なものが出来たようです。
但し、お値段の程は、関知するところではありません。
どんなものなのだろう、見てみたいなあ。

引用します(もちろん、宣伝ではありません)


         &&&&

<マスミ>組み立て式びょうぶ発売
6月29日12時8分配信 毎日新聞

 内装材販売の「マスミ」(東京都豊島区)は、ビルの一室を
簡単に茶室に模様替えできる組み立て式のびょうぶを発売
している。下地の骨組みには秋田杉、上張りには国産和紙を
使った本格派。組み立て時間は10分ほどしかかからないため、
急なイベントや茶会にも対応できる。
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by tamon1765 | 2008-07-29 08:22 | 雑談 | Trackback | Comments(0)

宗旦さんの琵琶の話(再)

宗旦さんの琵琶の話を探そうと、井口海仙氏の本を
探してみた。

1.「茶人のことば」淡交新社
2.「茶道名言集」現代思想社

どちらも私がお茶を始めた頃求めた懐かしい本だ。
そしてこの2冊、実は、多くの文章が重なった(ただ、
細部は違う)双子のような、不思議な2冊なのである。
そして、件の話は、「茶道名言集」の196頁に見出せ
た。原拠というべき本の書名「喫茶余禄」も記されて
いるので、また探す楽しみが出来た。

それにしても、淡交の本ながら、「茶人のことば」
には、「宗旦は、利休の実子道安の子で、千家の
三代目をついだ人である」(p120)とあり、
ちょっと困る。
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by tamon1765 | 2008-07-27 09:44 | 宗旦さん | Trackback | Comments(1)

鈴木宗保 「茶の湯随想」

昨日、鈴木宗保「茶の湯随想」を見つけたので、即購入。
読み出したら、これは!という話ばかり。目の眩む思いだ。
例えば、夜店で利休作の茶杓を見つけ求め、電車で座った
拍子に折ってしまった話し。
今日庵伝来の井戸茶碗(銘「八文字屋」)を5円で求め、
その道具屋にその日の内に5000円で買い戻された(受身です)
という話し。ちなみに、現在五島美術館蔵らしい。

また、丁度、私は、音(あるいは音楽)ということを気に
していたが、ここには、ドラの話し、奈良の大仏の鐘? 
ピアノで席入りを知らせる話し等などが様々に語られている。

そして、私には、この人たちが、趣向ということにこれほど
こだわっていたグループだとは思ってもいなかったので、
大いに驚いた。
近代数寄者との連続性を感じるし、事実その交流が随所に
語られている。
音楽の話しで言うと、小督、竹生島を趣向として琴を使った
りと。

いつも思うことだが、お茶には人それぞれのやり方・趣味・
方法・夢がある。ここには、良いや悪いということは一切ない。
兎に角、楽しめるし、奥の深い本である。
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by tamon1765 | 2008-07-26 23:21 | | Trackback | Comments(0)

茶室と音楽


お茶室のなかでは、音は松風のみ。
あとは、障子に隔てられた外の風の音、木々の揺れる音、
雨が板の庇を叩く音。。。。
あるいは、庭の獅子脅しの音。
あるいは、市中ならば物売りの声。
それらで季節や自然を感じるものなのであろう。
余所事浄瑠璃が聞こえるならば、それはそれでいい。
しかし、みづから音楽をかけることは無い。
基本はそれがいいと思う。

風庵さんのお話しで、
竹林の中で鶯の囀りを聞きながらのお茶会と伺って、
標題について考えてみた。
お茶にはどんな音楽があうのかしら、と。

ところで、お茶室に興味のある方は、書院の琵琶台という
ものをご存知と思う。
名前のとおり、琵琶を飾る台だ。
そして、宗旦さんが琵琶の名手で、また、その四天王の
間でも琵琶が流行っていたという。
(確か井口海仙氏の本あたりだったと思うが、その根拠
 は今後、要調査だ)
勿論、そこから、お茶人の弾く楽器は琵琶などという短絡
は戒めなければいけないと思うが、興味は覚える。
琵琶といえば、私には馴染みのない楽器であり、昔の
お茶人の嗜好の広がりや未知の世界を感じさせる。
もっともっと、昔の茶人やお茶を、全体で知りたいと思う。
宗旦さんはこんな話だったと思う。
訪問の約束をしていた普斎が遅くなり、待ちわびた宗旦
さんがお茶室でひとり、琵琶を奏でていた。。。。。

次に、お茶会やお茶事で音楽はありか、という問題。
春の海をテープで流すような大寄せのお茶会は論外として、
やはり音楽の鳴っているお茶会は、私には考えづらい。
多くの音楽を試すことなく断定するのは、一種の思考停止
状態のような気がして好ましくないのかもしれないが、
私には、結構という気がする。

一方、音楽の側に視点をずらすと、茶音頭という楽しい曲が
この世にはある。この一曲とお薄のお点前一回が、丁度
一致するという、というのだ。
私の中では、茶音頭といえば、二代目花柳寿美さんとセットだ。
お茶よりも踊りを見ているほうがずっといい。
こうしてみると、音楽に合うのはやっぱり、踊りかしら。
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by tamon1765 | 2008-07-25 12:35 | 雑談 | Trackback | Comments(8)

茶と荼

22日にいい気分で呑んで、王義之の『喪乱帖』の話になった。
朝電車の中で見ていた本(王義之の書が掲載)を取り出して、
名品を眺めながら、上手い酒を呑もうというわけである。

私は、「先墓再離荼毒追」の一節で、「荼」の字が出た
ことから、どんな意味かなと思っていた。
茶と荼の字の違いについて、布目潮風氏や林左馬衛先生の
ご本があったと覚えている。

すると、ご一緒した方のおっしゃるには、
この書は荼毒の字がポイントであり、匈奴をさすのであると。
さらに、西晋から東晋に移っていく時代背景を知らなければ、
この書の意味合いが全く理解できない、と。
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by tamon1765 | 2008-07-24 13:01 | | Trackback | Comments(0)

谷庄さんの茶杓展

この間の土曜日に、漸く時間を作って、銀座の谷庄さんの
茶杓の展覧会に足を運んだ。

これも、よく寄らせて頂いている、Akatsuki庵さんのお茶の
ブログ
からの情報だ。
まさに、お茶をやっている方の徳の御蔭である。

兎に角、良かった。素晴らしかった。
はっきり言って、楽しんだという心境ではなく、コテンパンに
やっつけられた。打ちのめされた。
私の削ったお茶杓なんて、。。。。一体なんだ。。。。。
もうお茶杓を削るの止めよう、とさえ帰り道では思った。

時間をおいて、既に平常に戻ったが、そんな俗気が自分の中に
まだまだあることに可笑しみを覚える。
また、有か無かといった状態にその瞬間あって、普段から
「極論は廃さなければいけない、中道こそ最も貴い」と口に
しながら、その対極にある自分自身の本質を再確認し苦笑する
のみである。
と、そんなことはどうでもよい。

何を見たか。

牙(5本)
宗和『ゆがみ』
庸軒『ゆがみ』
織部(清水道干添状)
遠州『残雪』
江雪宗龍
庸軒
松枝不入『寒梅』
宗慶『五月雨』
中院通茂『雲のひかり』
竹窓『さざれ石』
縣宗和『秋乃夜』
船越伊予守
江シン『雪中』
直斎『ジョウ』『姥』
庸軒『夕陽』
庸軒『半袴』
宙宝宗宇(4本 四季銘)
宗全『エビス三郎』
普斎『末広』
随流斎
宗易
宗和
宗ヘン『八橋』

と、私のいい加減なメモではこのようにある。(おそらく間違いが
多いと思う。指摘頂けると有り難いです。)
打ちのめされて、感想を書くこともままならぬ。
メモしたものも数えるほど。記憶の彼方に行きつつもある。
又思いついたら、僅かだろうが書き加えることとしよう。
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by tamon1765 | 2008-07-15 22:23 | 茶杓 | Trackback | Comments(2)

宗旦さんの遺偈

宗旦さんの自筆の遺偈

一息截断
咄々喝々
即今転機
害作茶烟


とりあえず、私なりに半可通現代語訳に挑戦すると、

今のこの一息を断て!
ちぇっ、何をしている、だめだダメだ
今この瞬間に変われ!
茶の香りが害をなしているゾ

とは、コリャ又、一体どのような意味なのでしょうか?

とりあえず、読みの正解は得られないので、自分なりの
半可通現代語訳の理解でコメントさせていただきます。

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by tamon1765 | 2008-07-10 07:49 | 宗旦さん | Trackback | Comments(3)

点前の精神的意義

エラソウな御託を並べてないで、私自身もっと基本に帰らねば、
と感じて、久々に、吉田尭文宗匠の『表千家流点前』を手に
取った。

お点前の解説以前の、序説がぐっとくる。ある種、衝撃だ。
題は、「点前の精神的意義」である。
引用する。

すべてのものにおいて、一定の形式のないところに一定の精神の
宿るはずがありません。

何回となく点前を反復練習しているうちに、知らず知らず茶道の
精神を体得できるのです。


嬉しくなるほど良い話だ。私は全面賛成。
というよりも、もしかしたら、若き頃この一節を眼にして、逆に
この考えに陶酔したかも知れない。そして、

どこまでもどこまでも厳しく点前を学ぶべきです。そうすれば、
そこにはおのずから広い境地が開けてきます。


このあと、表千家七代目如心斎宗匠のエピソードが紹介される
(その内容は、ゆっくり味わい考えたいので今は出さない。
興味のある方は、ご自分で本を紐解いてください)
が、早い話、名人の話である。

こうかんがえてきますと、それ(茶道は柔弱、遊びとみなす)どころ
か、男子一人が精魂をきわめても、なお容易に至りがたく、古来
こうした茶道の名人は、何人ありましたでしょうか。


話はどんどん盛り上がってきた。
最後の結論へ向かって、その高みに向かって加速が上がる。
文脈として、いい感じだ。
そしてこの章の最後の一文が、ちょっとした驚きを与える。

そして、なおしょせんこうした境地に至り得るのも、要は点前の
反復練習に過ぎない卑近な一途でありますから、道はきわめて
近きにあります。


目を大きく開いて見直して欲しい。
「道は遠い」のではない。「道はきわめて近きに」あるというのだ。

茶化しでもなんでもない。
この思考回路は、私の予測を遥かに超えたというか、見事に覆さ
れ、心地良いコンフュージョンのなかに、たゆたうことが出来た。
お茶の稽古は、凄いことなのだ。
天才でも、名人ならずとも、点前の反復練習によって、そのような
境地に至り得る!と言うのだから。
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by tamon1765 | 2008-07-04 23:55 | お点前 | Trackback | Comments(4)

気ま~まな独り旅


by tamon1765
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