カテゴリ:ことば( 62 )

喫茶去

ご存知のように、禅というものは厳しく、禅語は難しい。
ちょうど私の部屋から見える霊峰富士山のようなもので、
大きく聳え、仰ぎ見るが、決して手の届かないものだ。

さて、標題の 『喫茶去 』 であるが、茶席でもよく目に
する言葉だ。
ところが、この言葉の意味に二通りあり、
そしてそれを無視するかのように世間に流布していることに、
不思議な感覚を感じることがある。

その意味とは、
      この場を立ち去れ
     修行をし直して来い
というのだ。
この場合、喫茶とは他所での修行のことのようである。

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by tamon1765 | 2007-05-29 20:30 | ことば | Trackback(1) | Comments(0)

物を愛すること


柳宗悦の言葉

物を好くことと、物を愛することとの違いを省みるべきであろう。
前者には私が出るが、後者には私が静まる。
なぜなら、愛するとは敬うことであり、敬うとは謙(ヘリクダ)る
ことである。

美しさを尊ぶということは、私を越えることことであろう。


以上、『 柳宗悦 茶道論 』岩波文庫にある。
このような文章を読むと、落ち着く。
まさに、私が静まる感じだ。
e0024736_11423233.jpg

写真は、柳宗悦自宅。現在公開中(日本民芸館の向かい)
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by tamon1765 | 2007-05-26 09:41 | ことば | Trackback | Comments(7)

白雲抱幽石

お軸でよく目にする一節である。
寒山詩 (70) を紐解くと、わたしのイメージしていた
ものと、詩の作者の意図とのギャップが興味深い。

この白雲は、どこにあるか。
私は今まで、麓から見上げていた風情であり、
妙義山様のごつごつした岩山かなあ、と。
そして、その景色が茶席に合うものと思っていた。

ところが、この白雲は、彼方の風景ではない。
たった今、この庭先の眺めなのだ。
この詩では、
  庭際何所有(ていさい何の有る所ぞ)
  白雲抱幽石
       庭先に何があるかと言えば、
       そこでは、白雲が幽石を抱いている
とある。
また、寒山のほかの詩 (102) で、
  この丹桂の下に住して
  しばらく白雲を枕して眠らん
或いは、
  つねに白雲とともに閑なり  (25)

  下に山青の際を望み
  玄を談るに白雲あり  (39)

  共に白雲の中に坐せん (14)

という言葉も見出せる。

つまり、寒山は、雲の中に暮らしているのだ。
この言葉は、白雲を客体として眺めるものでなく、
白雲の中に暮らす主体になる言葉と捉えた方が
良さそうだ。

そして、思ってもみなかったことに、
標題の悠然とした語を含む、この詩の結末は、
豪奢な生活をするものに対するきつい批判である。
  寄語鐘鼎家(語を寄すショウテイの家)
  虚名定無益(虚名かならず益なし)


[19.5.9追記] no.25、39の一節を追加。
[20.1.6追記] no.14の一節を追加。
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by tamon1765 | 2007-04-01 15:26 | ことば | Trackback | Comments(2)

自分を生かす

自分に執着するのと、自分から離れて自分を見るのとは、
本来、無縁のことではないはずである。
狭く執着したために部分的にしか生かされない自分と、
大きく投げ出したためにまるごと生かされる自分を比べ
ていると、自己愛と自己放棄は矛盾するものではないと
思うようになる。
(中略).......私はしばしば自己放棄ということを考える。


『 竹西寛子の松尾芭蕉集・与謝野蕪村集 』から


世阿弥、離見の見を想い出す言葉でもある。
日々の生活の中で、「自分を生かす」ことに思いを寄せる
ことを、促される。
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by tamon1765 | 2006-12-29 22:14 | ことば | Trackback | Comments(2)

澤庵和尚茶湯一枚起請文 

澤庵和尚茶湯一枚起請文
                      一説利休作と云
唐土我朝、もろもろの茶湯者の沙汰し申さるる茶湯の
茶にもあらず。
只咽のかわきを止んため、湯を沸しぬれは、疑心なきそ
とおもひ、飲むの外べつの子細候はず。
但し、数寄と申ことの候は、我胸のうちさへ奇麗に候へば、
よろづ其うちにこもり候なり。
この外に、奧ふかきことを存ぜは、人の憐みにはつれ、
数寄者のかずにも洩れるへし。
この道を信せん人は、なほ和漢の道具を得たりとも、
一物不持の貧者のみとなりて、尼入道の無知の輩におなじく
数寄振る舞いをせずして、只一向に湯をわかすへし


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by tamon1765 | 2006-12-24 22:42 | ことば | Trackback | Comments(0)

真に存在した物 と 微笑 と

私たちはこれらの**を一つ一つ
手に取り上げて、回してみる。
するとどうしてこれが不滅なのかが
どうやらわかるような気がする、------
しかし私たちはもっと深く、
もっとすばらしく献身的に、
真に存在した過去の物に心を傾けることを知らねばならぬ、
そうしてたぶん、一年前より
いくぶん明るい微笑を浮かべることができるようにならねばならぬ。


&&&
リルケ 『 新詩集 』 の 「タナグラ」 から (高安国世訳)

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by tamon1765 | 2006-12-20 23:44 | ことば | Trackback | Comments(0)

「人間到る処青山あり」

キャスターのT氏が、「人間到る処青山あり」の青山は
お墓のこと、と言っていた。
彼は、「 転勤異動があっても、どこにでも骨を埋めるところは
ある、何処にだってお墓(に成りうる所)はある、の思いで
業務命令に従った 」 という文脈で語っていた。

おや? そうなのか、
と割り切れないものを感じて、本をひっくり返してみた。

  男児 志を立てて郷関を出ず
  学 若し成る無くんば 復た還らず
  骨を埋むる 何ぞ期せん 墳墓の地
  人間到る処 青山あり


勤王の僧、釈月性(シャクゲッショウ) が27才の作。学問をする
ために大坂に出んと、故郷の山口を出立する際のものだ。

3行目に確かに、墳墓と言ってはいるが、青山を墓と限定
するの如何なものか。
そのような限定はこの詩を矮小化しているように思い、残念
である。

まず、青山と言えば、青々と茂った森のある山を思い浮かべる。
それは美しく、豊かさの源となるものである。

ヤマトタケルの命の 「 たたなづく 青垣 」 という美しい歌も
想い出される。
青山は、神様を秘めた世界でもあり、想像に膨らんだ手の届か
ない理想境でもある。神奈備である。

また、この詩では、青山は還らない故郷以外の地でのものをいう。
つまり、古里以外にも(到るところに)、良いところ美しい場所
はあるのだ、と読みとれる。
もちろん故郷にも青山がある。いやむしろ、青山は故郷そのものとも
言えよう。
なにやら矛盾した物言いになってしまったが、青山は各自の心の
中の故郷に成り得る処と言い換えればよいのかもしれない。

そして、人間とは 「人間世界」「世の中」 の意味であるので、
この青山は、標高差のある地学的・地理的な「山」だけを表すの
ではない。
人と人の関係の中、或る組織の中にも青山(=美しいものごと、
懐かしい愛にはぐくまれた故郷)はあるのだ、ということになる。

以上のようにどんどんイメージが広がっていくことを思うと、
青山を墓と限定しない方がよいのは、当然であろう。

さて、韓国は慶州市街地の民家の間にあった古墳群----確かに
緑の美しい青山ではあった。お墓なのに、不思議な落ち着きと
懐かしさを与えてくれるものだった。

しかしながら、この詩で青山がこのような古墳を指すだけだと
したら、それは寂しい。



<一部加筆:20.4.20>
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by tamon1765 | 2006-12-05 01:34 | ことば | Trackback | Comments(1)

我儘から本当の生活が芽をふく

わたくしのこれまでして来たやうな、けちな辛抱からは、
いけないことや間違ひばかりが起こりましたけれど、
嘘いつはりのない我が儘からは、いくらでも、正しい、
ほんたうの生活が芽をふかうとしてゐたことに、この頃
やつと気がついたのです。

わたくしも、折角かうして、この世の中に生れ出さして
頂いたものですから、自分で一番正しい、と思ふことを
させて頂きたいのです。
正しい、といふことを言い換へれば、自分で一番したい、
と思ふことで、そのほかには、正しいなんてことは、
なんにもないのぢやアないでせうか。

人間が、しんにしたいと思つてすることなら、どんなこと
でもいい。

我が心の働きと思ふのが、悉くこれ天意なのだ。


 以上、里見弴 『 大道無門 』 から。
 私が名前を出すのも憚られるが、臨済和尚が繰り返し
 仰っていることと同じように思える。
 私には、里見の方が親しく、より素直に受け入れられる。
 里見の小説を読む喜びは、生きる喜びである。
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by tamon1765 | 2006-11-23 18:30 | ことば | Trackback | Comments(0)

いよいよ華やぐ

年々にわが悲しみは深くしていよいよ華やぐいのちなりけり

岡本かの子「老妓抄」から
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by tamon1765 | 2006-11-22 03:37 | ことば | Trackback | Comments(4)

世のなかを茶席露地と看做す

 この頃の茶会は、ちょうど道具やさんがお能の装束や
 面類を並べて、これの番をしているような場合がある。
 真の茶道とは、実は世のなかを茶席露地と看做し、
 世間の一般を客として交際し、道義と礼節を厳守した
 亭主として、四時年がら年中、茶の湯三昧の日常生活が
 出来るようになってこそ、初めて茶道人という事が
 できるのだと思う。


以上、田中仙翁さんの言葉だ。
(『茶と人』木耳社、昭和38年、からの引用)
このような批判は、常に目にするものである。
精神論ばかりで嫌う向きも多いかも知れない。

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by tamon1765 | 2006-11-07 12:54 | ことば | Trackback | Comments(0)

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by tamon1765
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