カテゴリ:ことば( 66 )

幽谷私なし

   幽谷私なし
   遂に至ればここに響(こた)ふ
   洪鐘きよに受く
   扣くに応へずといふことなし

   幽谷無私
   遂至其響
   洪鐘●受
   扣無不応

     (●きよは、註では、「つり鉤」)

『国訳禅宗叢書・第四巻』(国訳禅宗叢書刊行会、大正9年)
を見つけ、ワクワクしている。
収められているのは、
 『仏果円悟真覚禅師心要』
 『禅門宝訓集』
 『緇門宝蔵集』
である。

意味も分からぬながら、目だけ禅門宝訓集は追い終えた。
冒頭の句は、その中の言葉だ。
湛堂準和尚曰くの中に出てくるが、註によると、この句は、
蘭栖頭陀寺の碑文にあるという。
と、もっともらしく引用したが、この和尚さんも寺も私は
全く存じ上げない。
ご存知の方からヒントをいただきたい。

作為のないそのまま、
私のない世界、幽谷、、、、、
いい言葉だなあ。
[PR]
by tamon1765 | 2007-08-08 23:38 | ことば | Trackback | Comments(1)

世のなかを 何にたとへむ

                                 沙弥満誓
世のなかを 何にたとへむ 朝びらき こぎ去にし船の 跡なきごとし 
                       
世のなかを 何にたとへむ 朝ぼらけ こぎゆく船の あとの白浪


前者が万葉集(巻三)、後者が拾遺集。
これを読んで、ホーッとひとり喜びました。
今まで、朝ぼらけの「ぼらけ」の意味を考えたことはなかったの
ですが、そうか、「開く」という意味だったのですか、と。 
音韻は、自分にとっては全くもって疎い分野なので、その正誤を
判断できませんが、とりあえず、ひとり納得していました。

せっかくなので、字引を開いてみました。
すると、一応標準的理解の模様で安心しました。
曰く、
語源説として、
(1)アサビラキ(朝開)の転。
(2)アサビラケの転。
(3)朝ホノアケの約。
(4)ホラケはハラケと同じ。
とあり、岡山ではアサボーケとなまるそうです。
漢字は、朝朗と書くようです。

ところで、この和歌は、これから明るくなる一日を予感させる歌なのか、
去りゆく暗闇を見ている歌なのか、
作者は、世の中をどう思っているのか、ゆっくり味わいたいです。
この作者には、別に、
 朝夕にさびつつ居らむ
という、「さび」を考えるための和歌も残している方です。



<20.9.13追記>
上田秋成「雨月物語」内の『菊花の約』にこんな一節が
ありました。
「日和はかばかりよかりしものを、明石より船もとめなば、
この朝びらきに牛窓の門の泊は追ふべき。」
[PR]
by tamon1765 | 2007-07-14 12:34 | ことば | Trackback | Comments(1)

人間の欲心は可笑しきもの

人間の欲心は可笑しきものにて、いつにても思ひの
ままになると安心致居り候時は、案外我慢の出来る
ものにて有之候


以上、荷風先生『榎物語』から

これは、知足のための一つのヒントになる。
今すぐ実現しなくとも、決心さえすればいつでも
出来るものなのだと自分で分かっていれば、無理に
今この瞬間に求めなくとも……と、
心に余裕があるということ。
e0024736_11265687.jpg
[PR]
by tamon1765 | 2007-07-09 20:56 | ことば | Trackback | Comments(1)

宮本常一先生の言葉

宮本常一先生の言葉

「ここみることはさとることだ」

「いつもおもっていることはいつか達せられる」

「心を起そうと思わばまず身を起せ」


More
[PR]
by tamon1765 | 2007-07-01 20:19 | ことば | Trackback | Comments(0)

喫茶去

ご存知のように、禅というものは厳しく、禅語は難しい。
ちょうど私の部屋から見える霊峰富士山のようなもので、
大きく聳え、仰ぎ見るが、決して手の届かないものだ。

さて、標題の 『喫茶去 』 であるが、茶席でもよく目に
する言葉だ。
ところが、この言葉の意味に二通りあり、
そしてそれを無視するかのように世間に流布していることに、
不思議な感覚を感じることがある。

その意味とは、
      この場を立ち去れ
     修行をし直して来い
というのだ。
この場合、喫茶とは他所での修行のことのようである。

More
[PR]
by tamon1765 | 2007-05-29 20:30 | ことば | Trackback(1) | Comments(0)

物を愛すること


柳宗悦の言葉

物を好くことと、物を愛することとの違いを省みるべきであろう。
前者には私が出るが、後者には私が静まる。
なぜなら、愛するとは敬うことであり、敬うとは謙(ヘリクダ)る
ことである。

美しさを尊ぶということは、私を越えることことであろう。


以上、『 柳宗悦 茶道論 』岩波文庫にある。
このような文章を読むと、落ち着く。
まさに、私が静まる感じだ。
e0024736_11423233.jpg

写真は、柳宗悦自宅。現在公開中(日本民芸館の向かい)
[PR]
by tamon1765 | 2007-05-26 09:41 | ことば | Trackback | Comments(7)

白雲抱幽石

お軸でよく目にする一節である。
寒山詩 (70) を紐解くと、わたしのイメージしていた
ものと、詩の作者の意図とのギャップが興味深い。

この白雲は、どこにあるか。
私は今まで、麓から見上げていた風情であり、
妙義山様のごつごつした岩山かなあ、と。
そして、その景色が茶席に合うものと思っていた。

ところが、この白雲は、彼方の風景ではない。
たった今、この庭先の眺めなのだ。
この詩では、
  庭際何所有(ていさい何の有る所ぞ)
  白雲抱幽石
       庭先に何があるかと言えば、
       そこでは、白雲が幽石を抱いている
とある。
また、寒山のほかの詩 (102) で、
  この丹桂の下に住して
  しばらく白雲を枕して眠らん
或いは、
  つねに白雲とともに閑なり  (25)

  下に山青の際を望み
  玄を談るに白雲あり  (39)

  共に白雲の中に坐せん (14)

という言葉も見出せる。

つまり、寒山は、雲の中に暮らしているのだ。
この言葉は、白雲を客体として眺めるものでなく、
白雲の中に暮らす主体になる言葉と捉えた方が
良さそうだ。

そして、思ってもみなかったことに、
標題の悠然とした語を含む、この詩の結末は、
豪奢な生活をするものに対するきつい批判である。
  寄語鐘鼎家(語を寄すショウテイの家)
  虚名定無益(虚名かならず益なし)


[19.5.9追記] no.25、39の一節を追加。
[20.1.6追記] no.14の一節を追加。
[PR]
by tamon1765 | 2007-04-01 15:26 | ことば | Trackback | Comments(2)

自分を生かす

自分に執着するのと、自分から離れて自分を見るのとは、
本来、無縁のことではないはずである。
狭く執着したために部分的にしか生かされない自分と、
大きく投げ出したためにまるごと生かされる自分を比べ
ていると、自己愛と自己放棄は矛盾するものではないと
思うようになる。
(中略).......私はしばしば自己放棄ということを考える。


『 竹西寛子の松尾芭蕉集・与謝野蕪村集 』から


世阿弥、離見の見を想い出す言葉でもある。
日々の生活の中で、「自分を生かす」ことに思いを寄せる
ことを、促される。
[PR]
by tamon1765 | 2006-12-29 22:14 | ことば | Trackback | Comments(2)

澤庵和尚茶湯一枚起請文 

澤庵和尚茶湯一枚起請文
                      一説利休作と云
唐土我朝、もろもろの茶湯者の沙汰し申さるる茶湯の
茶にもあらず。
只咽のかわきを止んため、湯を沸しぬれは、疑心なきそ
とおもひ、飲むの外べつの子細候はず。
但し、数寄と申ことの候は、我胸のうちさへ奇麗に候へば、
よろづ其うちにこもり候なり。
この外に、奧ふかきことを存ぜは、人の憐みにはつれ、
数寄者のかずにも洩れるへし。
この道を信せん人は、なほ和漢の道具を得たりとも、
一物不持の貧者のみとなりて、尼入道の無知の輩におなじく
数寄振る舞いをせずして、只一向に湯をわかすへし


More
[PR]
by tamon1765 | 2006-12-24 22:42 | ことば | Trackback | Comments(0)

真に存在した物 と 微笑 と

私たちはこれらの**を一つ一つ
手に取り上げて、回してみる。
するとどうしてこれが不滅なのかが
どうやらわかるような気がする、------
しかし私たちはもっと深く、
もっとすばらしく献身的に、
真に存在した過去の物に心を傾けることを知らねばならぬ、
そうしてたぶん、一年前より
いくぶん明るい微笑を浮かべることができるようにならねばならぬ。


&&&
リルケ 『 新詩集 』 の 「タナグラ」 から (高安国世訳)

More
[PR]
by tamon1765 | 2006-12-20 23:44 | ことば | Trackback | Comments(0)

気ま~まな独り旅


by tamon
画像一覧