カテゴリ:ことば( 66 )

空気の香ばしさ

1946年4月17日
この頃の空気の香ばしさ、月の光の麗しさ、ただ呆然としてしまう。
沢山の詩が念頭に浮かぶけれど形をなさぬ中に消えてしまう。
男と女の愛と言うもののふしぎさ。
全く未知の世界にさまよい出てただただ驚き、恥じ入り(自分に
対して)、そしてしびれるような喜悦に身をおののかせている。


久々に本屋(ブックオフ)に立ち寄った。
「神谷美恵子日記」角川文庫、平成14年。
こんな本が出ていたとは、と驚き、あわてて購入(105円)。
さて、開いて、たまたま最初に読んだのが、上記の一節。
空気の香ばしさを敏感に感じとっているのだなあ、もっと自分も
そんな皮膚感覚を大事にしなければと思いながら、読み進むと、
どうも私のイメージするものと違う。

年譜やら色々と読みすすめていくと、32歳のこの年の7月3日、
東大理学部講師の神谷宣郎と結婚。
つまりその直前の、神谷に対する思いを含めた日記の一部分
だったのだ。

あまりにも高く聳える神谷美恵子さん(でもきつくは無い、
優しく聳えている感じ)であるが、やっぱりひとりの女性であり、
ひとりの人間なのだな、と至極当たり前のことに気付き、
猶一層近しく感じた。
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by tamon1765 | 2008-05-25 22:24 | ことば | Trackback | Comments(0)

水の流れるように

先程、とてもいい言葉を眼にしたので、引用しておきます。

およそ私どものお茶に取り組む姿というのは、淡々として
水の流れるようなのを、よしとしてきました。
すべてに極く自然であれということでもあります。
肩肘を張らず、自然な姿でこそ、主客のなごやかな交わり
が生まれます。
 水の流れるように自然な姿や、淡々とした心持で人を
もてなし、もてなされ、主客の心を一つに結ぶのが私ども
のもとめる茶の湯と申せましょう。


今の表千家流家元宗匠の言葉です。(一分引用を変えてあります)
2006年2~3月のNHK趣味悠々「茶をたしなむ」3ページです。
続けて、こうもあります。

先ず毎日の一服のお茶を大切に点てること、そして一服の茶は
「おいしいお茶」でありたいものです。


まさにそのとおりで、有難く感じます。
お稽古をするためにお茶をしているのではなく、「おいしい
お茶」を頂くためにやっているのですから。
そして、ここのポイントは、「先ず毎日の一服のお茶を」なの
でしょう。
まず私自身が、毎日一服のお茶を楽しむ心の余裕を持ちたい
ものです。
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by tamon1765 | 2008-05-11 11:35 | ことば | Trackback | Comments(4)

人生はマラソンのよう

民俗学者の谷川健一さん

人生は最後まで勝負の決まらないマラソンのようだ

今日の日経新聞「私の履歴書」である。
興味ある人だとやはり目がいってしまう。

1年のうち、三、四ケ月を旅ですごす日々を…
二十年間すごしてきたが、その民俗調査は、大学や
中央官庁や財団の援助を一切受けない、貧乏旅行で
あったというから凄い。
志の高い方は違うものだ。
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by tamon1765 | 2008-05-01 11:27 | ことば | Trackback | Comments(1)

貧乏人のふりをして

貧乏人が金持ちの真似をして喜ぶのはゴルフ
金持ちが貧乏人のふりをして喜ぶのがお茶
前者は人情の自然なるも
後者は嫌味の極みなり


長澤規矩也氏の言葉(中野三敏氏からの又引き)

但し、私には反論がある。


<26.7.15>追記
谷沢永一によると、長澤規矩也氏は、「」
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by tamon1765 | 2008-04-20 09:47 | ことば | Trackback | Comments(4)

好みの味の揺れ

おなじ人でも、場合によって、好みが違ってくるだろう。
家でくつろいでいる時と、外で緊張している時とでは、ちがった味を
求めるのがふつうだ。
しずかなとき、疲れたとき、うれしいとき、悲しいとき、人びとの
欲求は微妙に揺れる。
茶は人間の心と不思議なつながりをもつものなのだ。

                            (陳舜臣)



ここの処、毎日お茶を点てる時間を作るよう心がけてきました。
大切にしまっておいたお茶碗を出し、日々取り替えながら頂きました。
仕舞う前に乾かすため並べてあるので、部屋のスペースが妙に占領
されています。スッキリさせるためにしているはずのことが、かえって、
生活をややこしくしている?と苦笑しています。

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by tamon1765 | 2008-03-01 10:59 | ことば | Trackback | Comments(4)

再び 『喫茶去』

再び 『喫茶去』について
荒金天倫老師(臨済宗方広寺派第九代管長)は、
愉快な方である。

趙州ほどの男が喫茶店の客引きみたいに、「お茶を
どうぞ」というているんじゃない。
「飲むのもお前だよ。悟るのもお前だよ。怠ける
のもお前だよ。冷暖自知せよ。お前がしろ」という
ことなんです。
来る人ごとに「お茶どうぞ、お茶どうぞ」と、茶坊主
じゃないんです。

(『死を見つめる心の科学』p37)

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by tamon1765 | 2008-02-10 11:31 | ことば | Trackback | Comments(0)

偕老同穴

お正月に、とある小説で、「偕老同穴」との言葉を目にし、懐かしく思い出
したことを書く。
ご存知のように、死んでも同じ穴に葬られることを意味し、夫婦が最後まで
添い遂げることであり、それだけ二人の契りの固いこと、である。
今辞書を引くと、「カイロウドウケツ科に属する海綿動物の総称」とあり、
形は糸瓜に似た細長い円筒形で、3~80cm。体は、網の目状をなし、体の内部
に広い胃腔がある、そうだ。
そして、この胃腔の中に、雌雄一対のドウケツエビが棲む、と。
カイメンの胃腔内にあるエビが、生きては共に老い、死しては共に葬られる
ということだ。

さて、この言葉、この意味を聞いても全くピンとこなかった私だったが、
10年位前に、お茶の社中で研修旅行と称して、広島・宮島に旅行した際に、
宮島の宝物殿で、乾燥した標本であったが、この網の目状になったカイメンの
中の一対の海老を見たのだ。
感動した。
昔風の木箱の上面にガラスの張った展示で、入り口からは行ってすぐの右手に
あった。
いいものだ。
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by tamon1765 | 2008-01-06 22:37 | ことば | Trackback | Comments(0)

一期一会


風庵亭主さんから頂いたコメント
> よく茶道でいわれる「一期一会」の心とは、
> いったい誰が言い始めたのだろうか?
に反応して書きます。
但し、目新しいことは何も言っていません。

よく聞くのは、この言葉は、『山上宗二記』にあるが、実際
は井伊直弼『茶湯一会集』で広まった言葉である、という
言い方です。

小学館日本国語大辞典でも、出典は『山上宗二記』とし、
例文として直弼が引用されているのみでした。この辞書
で言っているのだから、おそらく、宗二が初出なのでしょう。
とすると、この気骨の人宗二の言語化能力は凄いなあ、
ということになります。

常の茶湯なりとも、路地へ入るより出るまで、一期に一度の
会のやうに、亭主を敬い畏むべし。世間の雑談無用なり
(茶湯者覚悟十体のあとの又十体)


で、四文字熟語になってないですね。
とすると、直弼はコピーライター的センスもあった、などと
下らないことをつい考えてしまいましたが、この二例以外の
用例を今後、探してみることとしましょう。

> どうしても、利休や宗旦の目指した「わびさび」と
> この「一期一会」の言葉が、小乗仏教と大乗仏教の
> 違いのような違う次元のものに感じてならないのです。

この見方は面白いですね。
但し、わびさびも唯我独尊ではなく、他との関係性の中で
生じることですから、一概に小乗と断ずることは無いでしょう。
そして、利休の信奉者である宗二から出た考えとすると、
当然利休さんの中にその萌芽があり、「わびさび」も「一期一会」
もある一つのことを違った視点から見て言語化したものと
いえなくないようにも思えます。
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by tamon1765 | 2007-12-26 23:35 | ことば | Trackback | Comments(1)

教外別伝 不立文字

皆が口にするが、あまり疑問をさしはさまないらしい言葉。
それに対して、私は、ずっと「?」を背負ってきた言葉。
それが、
  教外別伝 不立文字
である。

そして、碩学が全く私の思っている事を言ってくれて、
飛び上がって喜んだものだ。

神田喜一郎 
そもそも禅宗は教外別伝といい、あるいはまた不立文字とも
いい、文字や言語を超越したところにその極地があって、
それは冷暖自知するよりほかに方法がないといわれている。
しかるに事実は、禅宗ほど古来多くの文学作品を生み出した
宗派はない。


然り、然り。
そして、ここからが碩学の独壇場。
同じく「事実と違う」と言えても、その次が想像もつかなかった。

いかにも禅は冷暖自知するよりほかに方法はないが、しかしそれ
に導くまでには、やはり文字や言語の力を借りなければならぬ。
ところが、もともと象形文字から発達した表意文字である漢字は、
その表面的な意味のほかに、無限の余情と含蓄をそなえている。
その漢字によって作られた文学作品は、そういう意味において
禅の妙境を象徴せしめるのに、これほど最適のものはない。
古来禅宗に多くの文学作品の生み出されたゆえんであろう。

(『五山の文藝』から なお、冷暖自知の暖は火へん)

漢字の有難味を改めて感じるとともに、最近、禅の文学作品を目に
する際、その意味を取ることにきゅうきゅうとして、無限の余情と
含蓄を味わっていない自分に気づく。
はたして、禅の妙境を感じ取れるか疑わしいものだが、もうちょっと
楽しんでよむことにしよう。
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by tamon1765 | 2007-10-09 23:55 | ことば | Trackback | Comments(0)

南山の雲と北山の雨

一切はべた一枚で差別がないのかといえば、そうではなく、
「苦中に楽あり、楽中に苦あり」で、苦しみと楽しみは一つ
でありながら、苦は苦、楽は楽と全く別でもあります。
苦に徹底して苦しみ絶対になれば、そこには楽と相対の苦
を越えた世界であり、苦楽一如というもおろかです。

「南山の雲と北山の雨」とは、凡情がないから、雨は雨、
雲は雲で、そのまま全真だというわけです。それらは無我
であり、無心であるから各自の真を発揮しながら、そのまま
一体であり得るのです。


以上、『碧巌録』第八十三則についての、大森曹玄師の話しから。
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by tamon1765 | 2007-09-23 10:53 | ことば | Trackback | Comments(1)

気ま~まな独り旅


by tamon
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