カテゴリ:ことば( 62 )

貧乏人のふりをして

貧乏人が金持ちの真似をして喜ぶのはゴルフ
金持ちが貧乏人のふりをして喜ぶのがお茶
前者は人情の自然なるも
後者は嫌味の極みなり


長澤規矩也氏の言葉(中野三敏氏からの又引き)

但し、私には反論がある。


<26.7.15>追記
谷沢永一によると、長澤規矩也氏は、「」
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by tamon1765 | 2008-04-20 09:47 | ことば | Trackback | Comments(4)

好みの味の揺れ

おなじ人でも、場合によって、好みが違ってくるだろう。
家でくつろいでいる時と、外で緊張している時とでは、ちがった味を
求めるのがふつうだ。
しずかなとき、疲れたとき、うれしいとき、悲しいとき、人びとの
欲求は微妙に揺れる。
茶は人間の心と不思議なつながりをもつものなのだ。

                            (陳舜臣)



ここの処、毎日お茶を点てる時間を作るよう心がけてきました。
大切にしまっておいたお茶碗を出し、日々取り替えながら頂きました。
仕舞う前に乾かすため並べてあるので、部屋のスペースが妙に占領
されています。スッキリさせるためにしているはずのことが、かえって、
生活をややこしくしている?と苦笑しています。

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by tamon1765 | 2008-03-01 10:59 | ことば | Trackback | Comments(4)

再び 『喫茶去』

再び 『喫茶去』について
荒金天倫老師(臨済宗方広寺派第九代管長)は、
愉快な方である。

趙州ほどの男が喫茶店の客引きみたいに、「お茶を
どうぞ」というているんじゃない。
「飲むのもお前だよ。悟るのもお前だよ。怠ける
のもお前だよ。冷暖自知せよ。お前がしろ」という
ことなんです。
来る人ごとに「お茶どうぞ、お茶どうぞ」と、茶坊主
じゃないんです。

(『死を見つめる心の科学』p37)

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by tamon1765 | 2008-02-10 11:31 | ことば | Trackback | Comments(0)

偕老同穴

お正月に、とある小説で、「偕老同穴」との言葉を目にし、懐かしく思い出
したことを書く。
ご存知のように、死んでも同じ穴に葬られることを意味し、夫婦が最後まで
添い遂げることであり、それだけ二人の契りの固いこと、である。
今辞書を引くと、「カイロウドウケツ科に属する海綿動物の総称」とあり、
形は糸瓜に似た細長い円筒形で、3~80cm。体は、網の目状をなし、体の内部
に広い胃腔がある、そうだ。
そして、この胃腔の中に、雌雄一対のドウケツエビが棲む、と。
カイメンの胃腔内にあるエビが、生きては共に老い、死しては共に葬られる
ということだ。

さて、この言葉、この意味を聞いても全くピンとこなかった私だったが、
10年位前に、お茶の社中で研修旅行と称して、広島・宮島に旅行した際に、
宮島の宝物殿で、乾燥した標本であったが、この網の目状になったカイメンの
中の一対の海老を見たのだ。
感動した。
昔風の木箱の上面にガラスの張った展示で、入り口からは行ってすぐの右手に
あった。
いいものだ。
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by tamon1765 | 2008-01-06 22:37 | ことば | Trackback | Comments(0)

一期一会


風庵亭主さんから頂いたコメント
> よく茶道でいわれる「一期一会」の心とは、
> いったい誰が言い始めたのだろうか?
に反応して書きます。
但し、目新しいことは何も言っていません。

よく聞くのは、この言葉は、『山上宗二記』にあるが、実際
は井伊直弼『茶湯一会集』で広まった言葉である、という
言い方です。

小学館日本国語大辞典でも、出典は『山上宗二記』とし、
例文として直弼が引用されているのみでした。この辞書
で言っているのだから、おそらく、宗二が初出なのでしょう。
とすると、この気骨の人宗二の言語化能力は凄いなあ、
ということになります。

常の茶湯なりとも、路地へ入るより出るまで、一期に一度の
会のやうに、亭主を敬い畏むべし。世間の雑談無用なり
(茶湯者覚悟十体のあとの又十体)


で、四文字熟語になってないですね。
とすると、直弼はコピーライター的センスもあった、などと
下らないことをつい考えてしまいましたが、この二例以外の
用例を今後、探してみることとしましょう。

> どうしても、利休や宗旦の目指した「わびさび」と
> この「一期一会」の言葉が、小乗仏教と大乗仏教の
> 違いのような違う次元のものに感じてならないのです。

この見方は面白いですね。
但し、わびさびも唯我独尊ではなく、他との関係性の中で
生じることですから、一概に小乗と断ずることは無いでしょう。
そして、利休の信奉者である宗二から出た考えとすると、
当然利休さんの中にその萌芽があり、「わびさび」も「一期一会」
もある一つのことを違った視点から見て言語化したものと
いえなくないようにも思えます。
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by tamon1765 | 2007-12-26 23:35 | ことば | Trackback | Comments(1)

教外別伝 不立文字

皆が口にするが、あまり疑問をさしはさまないらしい言葉。
それに対して、私は、ずっと「?」を背負ってきた言葉。
それが、
  教外別伝 不立文字
である。

そして、碩学が全く私の思っている事を言ってくれて、
飛び上がって喜んだものだ。

神田喜一郎 
そもそも禅宗は教外別伝といい、あるいはまた不立文字とも
いい、文字や言語を超越したところにその極地があって、
それは冷暖自知するよりほかに方法がないといわれている。
しかるに事実は、禅宗ほど古来多くの文学作品を生み出した
宗派はない。


然り、然り。
そして、ここからが碩学の独壇場。
同じく「事実と違う」と言えても、その次が想像もつかなかった。

いかにも禅は冷暖自知するよりほかに方法はないが、しかしそれ
に導くまでには、やはり文字や言語の力を借りなければならぬ。
ところが、もともと象形文字から発達した表意文字である漢字は、
その表面的な意味のほかに、無限の余情と含蓄をそなえている。
その漢字によって作られた文学作品は、そういう意味において
禅の妙境を象徴せしめるのに、これほど最適のものはない。
古来禅宗に多くの文学作品の生み出されたゆえんであろう。

(『五山の文藝』から なお、冷暖自知の暖は火へん)

漢字の有難味を改めて感じるとともに、最近、禅の文学作品を目に
する際、その意味を取ることにきゅうきゅうとして、無限の余情と
含蓄を味わっていない自分に気づく。
はたして、禅の妙境を感じ取れるか疑わしいものだが、もうちょっと
楽しんでよむことにしよう。
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by tamon1765 | 2007-10-09 23:55 | ことば | Trackback | Comments(0)

南山の雲と北山の雨

一切はべた一枚で差別がないのかといえば、そうではなく、
「苦中に楽あり、楽中に苦あり」で、苦しみと楽しみは一つ
でありながら、苦は苦、楽は楽と全く別でもあります。
苦に徹底して苦しみ絶対になれば、そこには楽と相対の苦
を越えた世界であり、苦楽一如というもおろかです。

「南山の雲と北山の雨」とは、凡情がないから、雨は雨、
雲は雲で、そのまま全真だというわけです。それらは無我
であり、無心であるから各自の真を発揮しながら、そのまま
一体であり得るのです。


以上、『碧巌録』第八十三則についての、大森曹玄師の話しから。
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by tamon1765 | 2007-09-23 10:53 | ことば | Trackback | Comments(1)

幽谷私なし

   幽谷私なし
   遂に至ればここに響(こた)ふ
   洪鐘きよに受く
   扣くに応へずといふことなし

   幽谷無私
   遂至其響
   洪鐘●受
   扣無不応

     (●きよは、註では、「つり鉤」)

『国訳禅宗叢書・第四巻』(国訳禅宗叢書刊行会、大正9年)
を見つけ、ワクワクしている。
収められているのは、
 『仏果円悟真覚禅師心要』
 『禅門宝訓集』
 『緇門宝蔵集』
である。

意味も分からぬながら、目だけ禅門宝訓集は追い終えた。
冒頭の句は、その中の言葉だ。
湛堂準和尚曰くの中に出てくるが、註によると、この句は、
蘭栖頭陀寺の碑文にあるという。
と、もっともらしく引用したが、この和尚さんも寺も私は
全く存じ上げない。
ご存知の方からヒントをいただきたい。

作為のないそのまま、
私のない世界、幽谷、、、、、
いい言葉だなあ。
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by tamon1765 | 2007-08-08 23:38 | ことば | Trackback | Comments(1)

世のなかを 何にたとへむ

                                 沙弥満誓
世のなかを 何にたとへむ 朝びらき こぎ去にし船の 跡なきごとし 
                       
世のなかを 何にたとへむ 朝ぼらけ こぎゆく船の あとの白浪


前者が万葉集(巻三)、後者が拾遺集。
これを読んで、ホーッとひとり喜びました。
今まで、朝ぼらけの「ぼらけ」の意味を考えたことはなかったの
ですが、そうか、「開く」という意味だったのですか、と。 
音韻は、自分にとっては全くもって疎い分野なので、その正誤を
判断できませんが、とりあえず、ひとり納得していました。

せっかくなので、字引を開いてみました。
すると、一応標準的理解の模様で安心しました。
曰く、
語源説として、
(1)アサビラキ(朝開)の転。
(2)アサビラケの転。
(3)朝ホノアケの約。
(4)ホラケはハラケと同じ。
とあり、岡山ではアサボーケとなまるそうです。
漢字は、朝朗と書くようです。

ところで、この和歌は、これから明るくなる一日を予感させる歌なのか、
去りゆく暗闇を見ている歌なのか、
作者は、世の中をどう思っているのか、ゆっくり味わいたいです。
この作者には、別に、
 朝夕にさびつつ居らむ
という、「さび」を考えるための和歌も残している方です。



<20.9.13追記>
上田秋成「雨月物語」内の『菊花の約』にこんな一節が
ありました。
「日和はかばかりよかりしものを、明石より船もとめなば、
この朝びらきに牛窓の門の泊は追ふべき。」
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by tamon1765 | 2007-07-14 12:34 | ことば | Trackback | Comments(1)

人間の欲心は可笑しきもの

人間の欲心は可笑しきものにて、いつにても思ひの
ままになると安心致居り候時は、案外我慢の出来る
ものにて有之候


以上、荷風先生『榎物語』から

これは、知足のための一つのヒントになる。
今すぐ実現しなくとも、決心さえすればいつでも
出来るものなのだと自分で分かっていれば、無理に
今この瞬間に求めなくとも……と、
心に余裕があるということ。
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by tamon1765 | 2007-07-09 20:56 | ことば | Trackback | Comments(1)

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by tamon1765
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