カテゴリ:珠光さん( 6 )

月も雲間無きは嫌にて候

e0024736_1742328.jpg


禅鳳雑談の一節を拙訳しますと、
    **
珠光さんの話しで、「月も雲間がないのは嫌だなあ」と。
これは確かにそうで、この考えは面白い。
一方、池坊の花の弟子で、花に風情をつける話を細々
話してくれたものがいる。これも、得てしてわざわざ
面白がらせようとしているもので、それ程いいとは思
わない。               (禅鳳雑談の上4)

    
と口語訳してみましたが、「是も」が気になるので、その前段
を見ます。
    **
雑談でこんな話が出た。
謡はあっさり愛想がないようではよくない。
匂い立つような感じで、謙虚で、しっとりしているのがいい。
そのように綺麗でも、きれいすぎて、「真っ白な感じになる」
のも嫌だなあ。
(永正九年=1512、11月11日。禅鳳雑談の上3)

つまり、原文でいうところの「さのみ綺麗過ぎ候」と「面白
がらせ候はん」が、イコールということになります。
金春禅鳳と珠光は美意識を共有しているということですね。
また、前後の文脈は関係ないように思いましたが、この本が、
日付をつけてのものですので、日付け毎に塊で読んだほう
がよいということが分かりました。


e0024736_20442092.jpg

お月様は、1月26日の景色。

<補足、訂正>25.1.31
[PR]
by tamon1765 | 2013-01-29 13:48 | 珠光さん | Trackback | Comments(3)

心の師の文(現代口語訳、案)

  茶の湯の道において、最も良くないことは、心の慢心や我儘である。年功を積んだ熟練の人を嫉妬し、初心者を見下すことは、いけない。どうすべきかというに、先輩へは謙虚に教えを乞い、後輩に対しては、何とか育つよう手を貸すべきである。
 そして、この道での大切なことの一つは、中国伝来の物と国産品を区別なく扱うことであって、産地や謂れによらず、そのものの良さを見出していくことである。これが重要であり、そのように心がけたい。
 又、侘びの境地にある冷え冷えとしたものだといって、入門段階の者が、備前焼や信楽焼きなどを手にとって、悦に入っていることが、現在行われている。とんでもないことである。これは、本当の侘び数寄にのみ許されることである。
 そのような境地とは、良き道具を持ち、そのもの味わいを知り、そのものが己の心に響き合って、一時的ではなく後々まで冷え冷えとした枯淡を覚えてこそ、面白みの生じる境地なのである。
 とはいうものの、一向にその境地に近づけぬ者は、道具にこだわるべきではない。
 又、点前が上手になっても、自らの至らなさを嘆く謙虚さがたいせつである。
 ただただ慢心我儘がいけない。しかしながら、自負心もなければいけない。金言でも言われている。
   「自分で、自分の我儘な心を制御し導け。 
    我儘な心を行動の基準にしてはいけない。」
と、古人も云われている。


<26.1.19>表題変更
[PR]
by tamon1765 | 2012-03-06 15:44 | 珠光さん | Trackback | Comments(0)

心の師の文(原文)

1.此道、第一悪ろき事は、心の我慢我執也。
2.巧者   をば、そねみ
  初心の者をば□見下す事、一段もつたい無き事共也。
3.   巧者には   近づきて一言をも嘆き、
  又、初心の者をば、いかにもそだつべき事也。
4.此道の一大事は、和漢の境を紛らかす事、肝要肝要、用心有るべき事也。
5.又、当時、冷え枯るると申て、初心の人体が備前物・信楽物などを持ちて、
                     人も許さぬたけくらむ事、          言語道断也。
6.枯るると云事は、良き道具を持ち、 
             その味わひをよく知りて、
             心の下地によりてたけくらみて、
             後まで冷へ痩せてこそ      面白くあるべき也。
7.又、さはあれ共、一向叶わぬ人体は、道具にはからかふべからず候也。
8.いか様のてとり風情にても、嘆く所、肝要にて候。
9.ただ我慢我執が悪き事にて候。
10.又は、我慢もなくてもならぬ道也。銘道にいわく
     「心の師とはなれ、心を師とせざれ」
    と古人も云われし也。


<26.1.19>表題変更
[PR]
by tamon1765 | 2012-01-02 21:15 | 珠光さん | Trackback | Comments(0)

心の師の文を読んでみます

予告編
ええとですね、15年位前?でしょうか
パソコン通信という言葉でネットをやっていた頃の原稿
の一部が出てきました。
珠光さんの「心の師の文」について思ったことを書いたものです。
懐かしいと共に、私がそのころから進歩していないどころか、
大きな退歩に、愕然。悲しくなりますね。

発見できたのは一部ながら、頑張って復元プラス何か書き加え
られればと思っています。
と思いながら、もう一月以上たってしまったので、予告をして、
自分へ負荷をかけているわけです(苦笑)
ちなみにその当時のフォーラムのテキスト自体どうなっているのか、
私は分かりません。某N社のフォーラムのシステムは閉鎖されま
したし、著作権はどこに属すのか?
著作権は存在しても、テキスト自体残っているのか?
不明事項ばかりなんですけど。
もし万が一、心当たりのある方におかれましては、テキストの
コピーを頂けましたら幸いです。
(という甚だ楽観的且つお調子の良い書き込みでありました)


こんな書き込みでは申し訳ないので、内容的予告:

茶の湯のバックボーンは、禅宗ということになっています。
禅宗寺院で目に付くものと言えば、聯ですね。
とするならば、珠光さんをはじめ、皆さんの思考には聯的な思考
回路が存在するのではないでしょうか。
具体的に言うと、対にして考える、という点です。
そうやって、心の師の文を読んでみようというものです。



<26.1.19>訂正
書名「心の文」を「心の師の文」に変更。
[PR]
by tamon1765 | 2011-12-29 10:10 | 珠光さん | Trackback | Comments(0)

出家の身から還俗

遠藤元閑 『茶之湯六宗匠伝記』
を読んでいたら、こんな一節がありました。

一、珠光
....
自然と名高く茶道俊逸のほまれ慈照院義政公
きこしめしおよばれまみえ奉り還俗し、
六条堀川さめうし通の西に茶亭をかまへ
住居せり....


とすると、珠光は義政公の前では出家の身でなかった事
になり、私の前の書き込み

> ちなみに、珠光は出家名、村田は出家前の姓のため、
> 村田珠光と続けるのはおかしいという議論もあります。

は間違い。村田珠光でよいということになります。
[PR]
by tamon1765 | 2007-12-09 04:48 | 珠光さん | Trackback | Comments(6)

珠光さんの名前の由来

大無量寿経を眺めていたら、「珠光」なる言葉を
発見しました。
 日く、「 日月摩尼珠光の炎耀も、皆悉く隠蔽して、
     猶し聚墨の若し。

とあります。
どうやら、仏様の形容のための、そのまた表現の
ための文章の一節のようです。

珠光さんの名前の由来は知りませんが、
ご本人がこのお経を読んで、ここから取っていたと
したら、面白いな、と想像を逞しくしました。
ちなみに、珠光は出家名、村田は出家前の姓のため、
村田珠光と続けるのはおかしいという議論もあります。
確かに、空海や道元に名字をつけて呼ぶ人は居ません。
理に叶っています。
実際、私もお二人がどんな苗字か存じ上げません。

さて、例えば、「太陽」という一般名詞を子供さんに
そのまま、名前で付ける方もいます。
お経の中でこのように使われているということは、
「珠光」という言葉も、一種の一般名詞と考えられます。
昨年、お詣りした奈良の称名寺ではこのお経を読む
のでしょうか。
いろいろと想像は膨らみます。
[PR]
by tamon1765 | 2003-03-20 10:49 | 珠光さん | Trackback | Comments(1)

気ま~まな独り旅


by tamon
画像一覧