カテゴリ:『普斎茶道伝書』( 5 )

古き世のみぞ慕わしき

何事も古き世のみぞ、慕わしき。
今様は無下に卑しくこそ成り行きめれ、といえるも、
常世の茶の湯書は、驕りを本として、よろずに清らを
尽くしてもてる調度も華麗なるを人ことに好めり
物ごとその身に相応して侘びたるこそよけれ
茶道・喫茶・飯道、喫茶外の心あらじと師翁、常に教え給えり


普公茶話(一河宗丁茶湯覚書)


<20.12.9追記>
何でそんな話しになったか思い出せないが、
若い子たちに、つい、「あなた達のように新しい事が
何でもいいと思う人もいれば、何でも古いものの方が
いいと思う人間だっているんだよ」 と言ってしまった。

彼女たちは、まさに 「鳩が豆鉄砲喰らった」 という
表情をして、言葉もありませんでした。

あとで、「怒られちゃった」 ですって。
そんなつもり、全然無いのに。

ああ、生きにくい世の中なり。
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by tamon1765 | 2008-11-15 17:03 | 『普斎茶道伝書』 | Trackback | Comments(2)

雪には花はいらずと申候へども

雪には花はいらずと申候へども苦しからず。
勿論、雪を興ずる上はとあれども、あまり
心のつき過ぎたるは下手の心なるべし。


雪があるならば、花はいらない、不要だ、と言うが、
まあそんなに堅っ苦しく云うではない。
苦しからず、だ。
それも良し。
もっとも、つき過ぎるのは余り上手の心ではないな。
雪を興ずるのならば、雪。
楽しみは一つだけでよい。
欲張らないことだ。
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by tamon1765 | 2008-11-06 23:10 | 『普斎茶道伝書』 | Trackback | Comments(1)

思召す外なり

茶湯と申は、思召す外なり。
事に物に、坐するにも茶の湯、
立にも、茶の湯、
寝るにも茶湯有るべし。

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by tamon1765 | 2008-09-25 00:49 | 『普斎茶道伝書』 | Trackback | Comments(1)

松風の音を作ること

釜へにえ付る事一向不好儀也

「煮へ付けること」つまり、敢えて、煮え音を
作ること----これは、釜の底に鉄の塊をつけて、
松風の音を作ることであり、今では常識?的な
釜の製作のように聞いている。
しかし、これさえも、普斎さんは許さないのだ。
彼に言わせれば、まさに、
「さばしたるは悪しし」
「かないたがるはあしし」
というわけなのであろう。
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by tamon1765 | 2008-09-24 23:23 | 『普斎茶道伝書』 | Trackback | Comments(1)

客は茶の湯のワヅラヒ

茶の湯は客と云うものなし
却つて客は茶の湯のワヅラヒと古人も申され候
さればとて独り楽めとにはあらず
分限者のあさましき心には
道具何れも珍しき物ばかり出し申し候
善からん人のせぬ事なり
一二種かはりたるは数寄一人たる心なるべし


杉木普斎


皆さんはこれをどうお読みになっただろうか。

浅ましい心のある者は珍しい道具ばかり出したがって、
結局のところ、他人への自慢である。
だから、お客の存在は、茶湯にとって病気の元凶である
というのだ。
一種の極論である。
お客あってのお茶であり、お茶会であり、茶事だ。
そもそも、人一人で現在の茶の湯が成立したかあやしい。
コミュニケーションの中で発生したものであり、
連歌の座と同列に語られるとおりである。

もちろん、普斎さんも、そんなことは先刻ご承知。
    だからと言って、茶の湯は独りで楽しみなさいと言うわけ
    にもいかない
と記しているとおりだ。
それにしても、何故もっと中道で語らないのか、と
思わず感じる。
先日の宗旦さんの遺偈然り、利休さん然り。

ここで、おかしなことに気がついた。
もしかして、お茶をやる方って、本当に皆激しい人なの
ではないか。(。。。。もしかして、ですよ)
激しい人をひきつける何かが、お茶にあるのか。
それとも、お茶を始めると、心の奥底にしまわれていた激情が
顕わにされるのか?
もちろん、そんなこと分からないし、私の勝手な空想である。
ふと、自分の性格を振り返ってみた、ニヤリとするしかない。

<20.7.30追記> 普斎さんの本文以外の、私の感想部分を追加。
<20.9.12追記> 長闇堂久保権大夫は、「数奇をたしなまん人は
    ふたん茶独りたてましき物也」と述べている。今のような稽古茶
    という概念がないからであろう。これはこれで、至極まっとうな
    意見と思う。
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by tamon1765 | 2008-07-30 07:13 | 『普斎茶道伝書』 | Trackback | Comments(1)

気ま~まな独り旅


by tamon
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