カテゴリ:お点前( 35 )

花月の「場合の数」

花月の「場合の数」を考えてみる。
先ず、余り何も考えずに計算する。
札は、「月花一二三」の5枚。

まず、水屋で役割り分担で1回引く。
  5×4×3×2×1=120通り ・・・・①
次に、1回目の月花の決定(1服目)。
  5×4×3×2×1=120通り ・・・・②
更に、2回目の月花の決定(2服目)。
これ以降は、亭主は替え札をとるため、
  4×3×2×1=24通り ・・・・③
同じ事の繰り返しで5服目(最後5回目の月の決定)まで。
  4×3×2×1=24通り ・・・・④
これら場合の数は、それぞれに関して発生するので、
  120×120×24×24×24×24=199,065,600

とすると、1億9千9百6万5千6百通り、となる。

本来、松は3枚なので、③以降は、
  ÷(3×2×1)
とすべきなのかもしれない。
とすると、この場合の数は減ることになる。
しかし、松のかけ方(3人のうちの誰がかけるか)で、
その場合の数は一挙に上がる、想像できないくらいに。
この松のかけ方も計算上に反映できれば、「はさみ箱」や
「二つ箱」もちゃんと入れられるのであろう。
たった今の思いつきで始めた計算なので、私の文系頭には
その数式化すら思いつかない。
ということで、私に考え違いが有ればその指摘を、また
アドバイスを頂けたら有り難い。

私自身時間をおいてよく考えたいし、少しでも現実の数字に
近づけることが出来たら嬉しい。

それにしても、2億通り近いと思うと、笑うしかない。
まさに、「花月百遍 おぼろ月」。


<20.10.19>一部訂正
最後は名乗るのは月のみで、最後のお点前さんが片付ける。
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by tamon1765 | 2008-10-18 12:05 | お点前 | Trackback | Comments(0)

組合せの建水の拝見

組合せ点ての建水の拝見
今日始めて訪問したブログですが、
you*a*38さんの「海の月の独り言」という素晴らしい
ブログに刺激を受けて、思うことを書きます。

お題は、組合せ点ての建水の拝見です。
はっきり言って、私は一度もやったことは有りません。
さらに言うと、そういうことがあるという記憶もありません。
そもそも私の組合せ点てはあくまでお稽古であって、実際に
茶会・茶事でやったこともないからでしょう。
you*a*38さんと同じように、宗完宗匠(現宗心宗匠)の本
を開いてみました。
「建水は、本来は拝見に出すと言う道具ではない。」の一文に
チャッカリ線が引いて有りました(苦笑)。

なお、you*a*38さんも仰るように、起源に関しては、
コノ組合セハ江岑宗左、紀州候ヨリ瓶蓋ノコボシヲ拝領ノ時ニ、
初メテ用ヒラレタルコト也。コレソノ濫觴也

と引用されています。(「茶道小免八箇条」)

さて、ここからが、私の考えです。
現在、茶道をやらない人は「何故あんなに細かく手順が決まって
いるの? 意味あるのかしら? 美味しく出来て美味しく飲めば
それでいいのではないか」と考えているでしょう。
一方で、熱心な方は、誰が(正客かお詰めか)どこへ(拝見の
返す定位置か茶道口か)どのようにして返すのが宜しいかと、
追求されます。
ちょっと、ギャップが有り過ぎるかな、と私は感じるわけです。

このお点前、といいますか、所望された建水の拝見は、本来
有る事ではないと思います。何故なら、建水はゴミ箱です。
人の家へ遊びに行って、「おお、このゴミ箱いいねえ、ちょっと
よく見せて」というのは有り得ない。
殿様拝領の凄いもの----だから、せめて亭主席入り前に、点前
座へ飾る(つまりそれが組合せ)、ということではないでしょうか。

とすると、敢えて正客から拝見の所望を受けた場合、その
扱いはどうするのか、ということになります。
私の考えは、本来有りうべからざるものは、その時に対応すれ
ばよい。それも、失礼と粗相のないように。
そしてそのための、普段のお薄のお稽古ではないでしょうか。
ものの扱い、出す位置(お客とものと自分との距離のおきかた)
等、普段の稽古が身に付いていれば、何ら怖れることはない
のでは。その時に考えて動けばよいのではないかしら、
と思いました。

なお、以上、これはあくまでも一愛好者である私の個人的
な考えで、私の師の考えでも宗匠の考えでもありません。
(と言うより、お伺いを立てたこともないですし、どのように
 お考えかは存じ上げません。)
以上をご承知おき願います。
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by tamon1765 | 2008-09-28 23:21 | お点前 | Trackback | Comments(0)

濃茶を一柄杓で点てる

江守奈比古氏に面白い説があったので紹介します。

濃茶は、一度湯を少量注いで茶を練り、その後湯をたして
お茶を飲み頃にのばすという点て方が殆どと思います。
ところが、遠州流には、一柄杓で点てる点前があるそうです。
これは、ダマの出来ぬよう点てるのが難しいですが、
上手に点つと香が残って実に美味しいといいます。
これを、古風な点前であり、利休のやり方だったのでは
ないかと仰っています。


この説の正しさもその根拠も詳しくない私ですが、
是非今度一柄杓での濃茶に挑戦してみます。
(現在、体調不良のため、あまり濃茶を欲しない)。

さて、それに続けての文章は、至極まっとうであり、
独りで行う稽古についての一つの答えがあります。

先づお茶をたてるには自分でたててみて自分で飲んでみる
ことが肝心です。自分の嗜好に会うようにお茶がたてられ
れば、人に差し上げるお茶も自然に先方の気に入るお茶が
たちます。
頭で考えないで、手先が自然に動くように何千回か何万回も
練習することが必要です。稽古とは頭で考える先に体(又は
手)が動くように体が憶えるまで動作を繰返すことです。


<27.12.8>リンク追加







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by tamon1765 | 2008-09-27 20:37 | お点前 | Trackback | Comments(1)

仕組みと組合せ


毎日寄せてもらっている、山桜さんのブログを拝見して
テキストをひっくり返してみました。
いろいろと書きたくなったのですが、表千家流では、
現在習事としての許しものです。
ということで、……

さて、私のオリジナルなら構わないでしょうと、以下、
しょうもないお話を。

お稽古場で、先生が、「今日は仕組みをやりましょうか」
と仰ると、皆一様に「エーッ」と、口篭もります。
仕組みと組合せの区別があやふやだからでしょう。

でも、私は大丈夫。
その違いをはっきり覚えているから。
それを公開します。(大した話じゃないですけど)
  しぐみ(3文字)
  くみあわせ(5文字)
で、組合せの方が、字数が多くて重いです。
重いものは運べないから、最初に全部出しておきます。
って、それだけ。
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by tamon1765 | 2008-08-10 23:34 | お点前 | Trackback(1) | Comments(2)

点前の精神的意義

エラソウな御託を並べてないで、私自身もっと基本に帰らねば、
と感じて、久々に、吉田尭文宗匠の『表千家流点前』を手に
取った。

お点前の解説以前の、序説がぐっとくる。ある種、衝撃だ。
題は、「点前の精神的意義」である。
引用する。

すべてのものにおいて、一定の形式のないところに一定の精神の
宿るはずがありません。

何回となく点前を反復練習しているうちに、知らず知らず茶道の
精神を体得できるのです。


嬉しくなるほど良い話だ。私は全面賛成。
というよりも、もしかしたら、若き頃この一節を眼にして、逆に
この考えに陶酔したかも知れない。そして、

どこまでもどこまでも厳しく点前を学ぶべきです。そうすれば、
そこにはおのずから広い境地が開けてきます。


このあと、表千家七代目如心斎宗匠のエピソードが紹介される
(その内容は、ゆっくり味わい考えたいので今は出さない。
興味のある方は、ご自分で本を紐解いてください)
が、早い話、名人の話である。

こうかんがえてきますと、それ(茶道は柔弱、遊びとみなす)どころ
か、男子一人が精魂をきわめても、なお容易に至りがたく、古来
こうした茶道の名人は、何人ありましたでしょうか。


話はどんどん盛り上がってきた。
最後の結論へ向かって、その高みに向かって加速が上がる。
文脈として、いい感じだ。
そしてこの章の最後の一文が、ちょっとした驚きを与える。

そして、なおしょせんこうした境地に至り得るのも、要は点前の
反復練習に過ぎない卑近な一途でありますから、道はきわめて
近きにあります。


目を大きく開いて見直して欲しい。
「道は遠い」のではない。「道はきわめて近きに」あるというのだ。

茶化しでもなんでもない。
この思考回路は、私の予測を遥かに超えたというか、見事に覆さ
れ、心地良いコンフュージョンのなかに、たゆたうことが出来た。
お茶の稽古は、凄いことなのだ。
天才でも、名人ならずとも、点前の反復練習によって、そのような
境地に至り得る!と言うのだから。
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by tamon1765 | 2008-07-04 23:55 | お点前 | Trackback | Comments(4)

お茶の楽しみ

ネットをブラブラしていたら、初めて訪れた、好感の
持てるブログで、お茶の手順(書き方から拝見すると、
お点前以前と言う感じでした)を、何故こんな面倒な
ことをしなければいけないのかなと言った意味合いの
ことが書かれていました。
思わず、それは残念ですね。いつか面白いと感じられ
たらいいですね、といったコメントしてしまいました。
つい、余計なことを書き残してしまい、後悔しています。
言い訳を言いますと、お茶はこんな面白いものなのに、
知らないなんて、勿体無いなあ、と思ったからでした。

例えばこんなことを思います。
「サッカーは、何故、足でしかボールを蹴っちゃいけ
ないのか。手が使えないなんて、おかしい」と言って、
サッカーを見ない人が私の周りにいます。
そんなこと言われても、スポーツを楽しくやるために決めた
ルールなのだから、それを否定されても。。。。と思います。
でもそれ以上に、サッカーのあの面白さを知らないなんて、
残念だなア、勿体無いなア、と感じるわけです。

同じように、バイオリンを手にした人が、「何故、こんな
風に左肩に乗っけて顎で押さえつけて、右手の弓で、糸を
擦らなければいけないのですか?」と言わないでしょう。
もし言うような人がいるとしたら(そんな人いると思いま
せんが)、最初からやりません。

私は、お茶もそれと同じと思うわけです。

そしてそれ以上に、茶の湯って面白い。
但し、人がよく言うような、お茶は奥が深いだなんて、
言う気は無いです。
全てのことは極めれば奥が深いに決まっています。
お茶のみ奥が深いと言うのは、お茶をやる人の傲慢だ
と思っています。
私はお茶って良いなと思うのは、
・ ゲームのような勝ち負けが無いこと。
・ 音痴・リズム感が悪く(どちらも該当者は私)ても、
  楽器と違って続けていける。
からです。

もちろん、サッカーより野球が好きという人はゴマンといる
でしょうし、お茶より面白いと感じるものを持っている人は
数限りないです。
それはそれで幸せなことです。
お茶をやらずともそれをやればいいのです。
そして、今お茶をやっている人でも、お茶より大切なもの・
面白いものを見つけられれば、そちらに移っていいと思います。
囚われることは、お茶の否定することですから。
但し、人は食べることより好きなことが出来たと言っても、
食べることは止められないです。それと同じで、お茶を全く
棄てることはできないのではないかしら。
そんなことを思っています。
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by tamon1765 | 2008-06-23 23:57 | お点前 | Trackback | Comments(2)

美しい動き

フィギュア・スケートは私の好きなものの一つです。
その採点には、一喜一憂するものですが、その採点が全て
正しいとは思いません。
むしろ、採点というものにそぐわない分野であると感じます。
好きな選手の高得点は素直に喜び、意外に点数の伸びない
場合は、負け惜しみながら 「スポーツの採点による優劣と美
とは必ずしも一致しない」 と唱えている訳です。

では、フィギュア・スケートを見て感じる美とは何かと言えば、
例えば、それは、指先の美しさであり、例えば、動きの連続性
であり、例えば、ブレの無さ、と言えるのではないでしょうか。
その意味で、韓国のキムヨナ選手は凄いです。
見るたびに、驚きを感じます。

この話し、ではお茶とどう繋がるか、ということになりますが、
美しいお手前を考える際に、大いにヒントになると感じます。
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by tamon1765 | 2008-03-26 23:20 | お点前 | Trackback | Comments(1)

お茶室の坐る位置

somiさんから頂いたコメント(泡のこと)で、参考書をみつけ
たまま、ゆっくり読むことも、自ら考えることもせず、....
で、恐縮なのですが、とりあえず、その本を紹介しておきます。

中村昌生さん『茶の建築』昭和43年初版(河原書店)を開くと、
126頁からが、まさに回答です。
「普斎の茶書」(残念ながら出版されていないようですが)の図
の写真が載せられていて、客座まで示されたとても丁寧な本です。

そもそも、私は、お茶室を拝見するのは好きですが、自分では
一生作らないもの(作られないもの)と思っていることもあって、
疎いです。

いずれにせよ、掛け物を重んじ床の前は開けるべきもので、それら
に背中を向けて坐ることは本来のやり方ではないことを、私として
は実感できました。
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by tamon1765 | 2008-03-21 09:57 | お点前 | Trackback | Comments(0)

柄杓の持ち方、湯の汲み方

風庵さんからのお話しで、夢庵さんにも加わって頂いた話題
「柄杓の持ち方、湯の汲み方」について書きます。
(あくまで私の個人的考えですので、お間違いの無いように)

>腕で汲むのか、カラダごと上下させて汲むのがよいか、
見かけ上は、腕で汲むと思います。心構えとしては、手先では
なく、体全体で汲む気持ちで、なのでしょうが、体の上下は
無い方がむしろいいのではないかと。

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by tamon1765 | 2008-03-16 10:00 | お点前 | Trackback | Comments(0)

泡のこと

よく知られるように、表千家では泡は立てないもの
とされています。例えば、手元の本を見ても、

「お茶のたて方は、流儀によっていろいろと違います。
表流ではあまり泡は立てません。泡はごく自然に立つ
だけで、特に泡の立ちすぎるのを嫌います。」 
(即中斉宗匠)イ


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by tamon1765 | 2008-03-02 17:59 | お点前 | Trackback | Comments(8)

気ま~まな独り旅


by tamon1765
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