カテゴリ:石( 8 )

カウネンキ


「同門」11月号(532号)を眺めていたら、
「表千家家元の初釜で残月亭の床に飾られる盆山」
として、カウネンキ盆山が掲載されていました(p17)。

エッツ? 更年期!
と、一瞬驚きましたが、
年をあらためるという意味での更年なのでしょう。
但し、キが分かりません。
季、期、祇、紀、希、、、、何でしょうか?

石の裏にカウネンキと直書きされたのは、宗旦さん。
箱書きは如心斎とのことです。

流線型の、3つの山のような、流れのような石で、
新年の飛躍を感じるようなステキな石です。




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by tamon1765 | 2015-11-22 18:37 | | Trackback | Comments(2)

兜のような石

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by tamon1765 | 2015-06-29 03:44 | | Trackback | Comments(0)

地層のような石

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by tamon1765 | 2015-06-11 21:19 | | Trackback | Comments(0)

海老茶の混ざる石

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by tamon1765 | 2010-03-09 05:52 | | Trackback | Comments(0)

白く透き通る石

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白く透き通る石
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by tamon1765 | 2010-03-05 06:47 | | Trackback | Comments(0)

桜の花びらのような石

桜の花びらのような模様が見られる石

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宇治の万福寺さんからいただいてきた石です。
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by tamon1765 | 2010-02-28 16:57 | | Trackback | Comments(0)

靖国神社にて

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by tamon1765 | 2009-02-24 17:31 | | Trackback | Comments(0)

藤戸石

京伏見の醍醐寺三宝院庭園に藤戸石という石がある。
1450程の石が組んであるという名園の一つであるが、
その中で一際有名な、石である。
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藤戸といえば、佐々木盛綱に浅瀬を教えて殺された、
浦の男のなんとも嫌な話しだ。
しかし、この石は武将を虜にし、
1)足利義政の所有となり、
2)細川藤賢が自らの屋敷に移し、
3)織田信長が足利義昭のために建てた二条第へ運び、
4)秀吉が聚楽第へ運び
5)秀吉が醍醐寺三宝院に移した(現在に至る)
というのだ。特に、信長も囃しながら運び、その石の入手を
喜んだとされる。
何故そんなところの石が、と感じていたが、プチたびという
サイトには、

> 庭園は、1598(慶長3)年、豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際し、
> 庭奉行・竹田梅松軒に命じて築庭させた
> 藤戸石は、もともと瀬戸内海の藤戸(現在の岡山県倉敷市藤戸)
> の岩礁にあった「浮洲岩(うきすいわ)」。源平の合戦を見守った
> ことから「血染めの石」とも呼ばれていた。

とある。血染めと言われた物を庭の真ん中に据えるのは私と
しては、どうもちょっと……である。
そのほか、殺された男がこの岩の傍らに流れ着いたとも、戦さに
勝つ武運の石といわれたとの情報もあり、様々な謂れの出典を
知りたいと感じた。

ところで、倉敷市の藤戸の旧蹟は今では全くの内陸部になって
しまっていたが、迫力ある巨大な岩が道の脇にあり立派なものだなあ
と感じたものだ。確か藤戸というバス停前だったと記憶している。
能「藤戸」にも、「あれなる浮洲の岩の上に」とあり、
香西精先生は「浮洲の岩は、のちに京都に引かれて醍醐三宝院の
名物になっている」と断定されている

三宝院では、池を隔てた向こう側なので、眼鏡や双眼鏡を持参し
なかった私には、残念ながらその本来の迫力が感じられなかった。
庭としては、尖ったところのない、ゆったり感のある落ち着いた心休
まる庭である。

石とは関係ないが、今年8月24日に落雷のため准胝(じゅんてい)
観音堂が全焼した。こちらは、西国三十三観音霊場第11番札所でも
ある。平安時代の貞観18(876)年の創建と伝えられ、昭和14年にも
火災焼失、43年に再建された。本尊の准胝観世音菩薩は秘仏。
形あるもの全て滅びるとは言いながら、悲しいことである。

庭園の撮影は確か出来なかったと思う。参拝したのは6年程度前。
写真は、成和園さんのHPからお借りした。


27.7.7>追記

蒿蹊伴先生著「閑田耕筆」を眺めていたら、

下記のようにあった。

「滄桑相変するは、仙人ならではみるべからねど、

佐々木盛綱が渡りし藤戸も、今は陸地となりぬ

この本は、寛政11年(1799)の跋があるので、

この時点ですでに内陸部に来ていたということが

分かる。



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by tamon1765 | 2008-10-25 23:08 | | Trackback | Comments(1)

気ま~まな独り旅


by tamon
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