カテゴリ:天心岡倉覚三さん( 13 )

利休さんの最期の言葉


        よくぞ来たれり
        永遠の剣よ
        汝は仏陀、達磨もおしわけて
        汝の道をつき進みしに

これは、岡倉天心による有名な利休さんの偈である。
天心によるとは、天心の英訳に対する現代日本の口語訳
だからである。(宮川寅雄訳)
『茶の本』の結末に出ている。
        "Welcome to thee,
         O sword of eternity!
         Through Buddha
         And through Daruma alike
         Thou hast cleft thy way. "

More
[PR]
by tamon1765 | 2007-05-23 12:17 | 天心岡倉覚三さん | Trackback | Comments(0)

偉大な絵画に接するには

天心の「茶の本」には、
 遠州侯が、
 「偉大な絵画に接するには、王侯に接する如くせよ」
 と述べている、
とあります。(例えば、宮川寅雄訳、講談社文庫P56)
村岡博訳は全く同じ、森才子訳もほぼ同じです。

原文は、
The tea-master, Kobori-Enshiu, himself a daimyo, has left to us
these memorable words: "Approach a great painting as thou
wouldst approach a great prince."
です。

さて、この遠州侯の言葉の日本語原文は何でしょう。
何という書物で仰っているのでしょうか。
あるいは、逸話として載っている本は何でしょう。
ご存じの方、ご教授願います。
[PR]
by tamon1765 | 2002-03-10 04:43 | 天心岡倉覚三さん | Trackback | Comments(0)

天心の抹茶

岡倉天心は、私たちにとってまず、『茶の本 (明治39年公刊)』 と
いうことになります。が、彼は、お茶(抹茶道)の先生について正式に
稽古をしたことは無いようです。
 では、その知識の源泉は何か、という興味が生じます。

結論から云うと、妻の基が、江戸千家不白流の石塚宗通に習っています。
 啓草社の茶湯手帳に依りますと、この石塚宗通さんは、石塚流(不白流
石塚派) の4代、明治41年(1908) に84歳で亡くなられた不染庵という
ことになるでしょう。
 計算すると、この宗匠の生まれは、文政7年(1824)。
天心が基を娶った明治12年(1879)には、この宗匠は55歳です。

ところが、この基子さん、ヒステリーを起こして天心の卒論 (つまり
天心は学生結婚なのです) を破り捨てたと云う方で、私の中ではどうも
お茶と結びつかない方であります (マア、余計なお世話ではありますが)。
彼女は、大岡越前守の縁者というから、元々は天心と同じ武家の出では
あります。
ならば、少女時代に習ったのでしょうか。
と言っても輿入れは17歳です。先に書いたとおり、この時宗匠は55歳。
はたして、宗通に習ったのは何時なのでしょう。

 ちなみに、卒論 「国家論」 が破り捨てられたおかげで、美術に携わる我らが
天心が誕生したのですから、基子さんに感謝しなければいけません。

さて、その後、根岸の家 (明治23年冬から) の時代に、天心らは
日本婦人の婦徳を養うことを目的に 『清迎会』 という婦人団体を組織し、
そこに茶の湯の指導者として天心が、石塚宗通を招聘しています。
ここから、明治23年 (この時宗通66歳) 以前から、二人ののつきあいが
確認できました。
 これは、岡倉一雄 『 父天心をめぐる人々』 にあり、一雄氏は 「 変わり者
の石塚宗通 」 と言っているのが愉快です。
きっと魅力的な宗匠だったのでしょう。

立ち止まって考えると、妻基以上に、天心自身がヒステリーの人であり、
且つ又、それをエネルギーに大きな仕事を成し遂げた人と思われます。
茶の本を読むと当然かも知れませんが、お点前の動作についての記述が
ありません。
果たして、天心自身どんな風に抹茶を点てたのでしょうか、
彼のこと、人を驚かすような事をしていたのでしょうか、
想像は膨らみます。
[PR]
by tamon1765 | 2001-08-17 12:14 | 天心岡倉覚三さん | Trackback | Comments(0)

気ま~まな独り旅


by tamon1765
画像一覧