カテゴリ:近代の茶人( 26 )

仰木魯堂についての覚書


仰木魯堂についての覚書

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1.過去の書き込み

藤原銀次郎の旧蔵本 2015 12 03

護国寺の『魯堂顕彰碑』 2006 11 15

蘭奢待を聞香する 2009 05 21

高崎の水琴亭 2009 05 11

  *

2.作品

(1)邸宅、別荘

 中野家、団琢磨、団伊能、赤星鉄馬、今井繁三郎、

 岩原謙蔵、藤原銀次郎、春海藤次郎、小坂善次郎、

 塩原又策、馬越恭平、杉孫次郎、福井菊三郎、

高橋箒庵、今村力三郎、梅沢渋柿庵(原宿)、桜井宗芳、

馬越幸次郎、川部太郎、松方正義、藤瀬家、

堀家、小倉房造、有馬長文、中村好古堂、

岡部長景、間島乙彦、三井養之助、●団家(仙石原)、

松永安左衛門、津村重舎、吉田家(井の頭)、

小倉常吉、大橋新太郎、久世家(鎌倉)、岡部家(三津浜)。

外、別荘、葉山2軒、奥多摩2軒。

(2)料亭

 新橋花月、赤坂水戸幸、浅草八百善、京橋竹葉亭

(3)田舎家

 強羅白雲洞、伊豆川奈ホテル、平林寺山荘、

(4)茶室

 総持寺、音羽護国寺

(5)仏教施設

 ●音羽護国寺多宝塔、埋経塚(場所?)、観音堂(寺名?)

 団家墓碑及墓域、堀家墓碑及墓域


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by tamon1765 | 2017-08-02 15:16 | 近代の茶人 | Trackback | Comments(0)

藤原銀次郎の旧蔵本

秋成さん関連本を求めて、久々に古本市へ足を運んだ。

お目当ての本を見つけ、お茶関係の本は今はいいや

と思っていたら、創元社の茶の湯全集に遭遇。

全巻持っているので不要ながら、悪癖で「ちなみに幾らで

売っているのかな」と手に取ったが最後、買う羽目に。

何か挟まっている、栞替わりだろうが・・・・・・、

見ると、藤原銀次郎宛ての葉書きであった。

ということは、このシリーズ本は、彼の旧蔵本ダ!

と思わず買ってしまった。

どのページに挟んであったのか分からなくなった

のが残念。

まあ、この本は文献編なので、誰かと一緒に読むことが

あれば、その方に進呈することにしよう。


e0024736_11592153.jpg

処で、差出人の側も気になって、調べてみた。

山本亀光という方である。

で、結果としては、

『三井銀行五十年史』(1926.09)

大正12年(1923)に監査役山本亀光

とあり。

余談ながら、このようなことも、瞬時に調べられる

ネット社会に恐怖を覚えた。


<29.8.8>読み易いよう加筆。




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by tamon1765 | 2015-12-03 21:59 | 近代の茶人 | Trackback | Comments(1)

鈍翁さんの、お茶の作法に関する考え

「お茶の作法なんていうものは、せいぜい、

徳川初期あたりにできたものだから、そんな

定めにしたがう必要はない。定めにしたがわ

なくてもお茶はたてられる」

桑田忠親による、鈍翁の言葉です。

但し、「こんな言葉があります」と書いています

ので、直接本人からの言葉かどうか不明です。

二人の出会いはあったか考えてみると、

鈍翁益田孝(184811月 ~ 193812月)

桑田忠親(190211月 ~ 19875月)

鈍翁が亡くなる時は、桑田は36歳。なんとも微妙ですね。

桑田が歴史学者として名を成すのは、もっと後で

しょうから、ここでは直接の聞き取りではなく伝聞

あるいは書き残したものからの引用ということに

しておきましょう。


また、桑田は、「(鈍翁は、)自分勝手に、融通無碍、
自由
自在なお茶をやったらしいです。」とも書いています。

まあ、私が思うに、この時代のこれら大物は精神の

自由人でしょうから、冒頭の発言も頷なるかな、です。


さて、過去に鈍翁が、お茶事を行うにお手伝いを頼んだ

という記事を書きました。有名な料理人を連れてこない

ところがいいですね。


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by tamon1765 | 2015-06-05 14:17 | 近代の茶人 | Trackback | Comments(1)

訓練不足では戦争に勝つことはできない

軍書ばかり読んでいても滅多に将軍の資格に達する

ことは不可能なのである。茶道でも点前の訓練を

せず茶書や、自分勝手の理屈を積むのみでは滅多に

本格の茶道には達し得ないのである。軍隊なら訓練

の不十分な方は戦争には勝つことはできないという

結果になる。

千宗守(九世愈好斎聴松)「茶道妙境」昭和15創元社

戦争を例として引き合いに出していることに時代

を感じますが、まずもって至極当然のことです。

早速、一碗点ててみることにします

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by tamon1765 | 2015-04-07 15:53 | 近代の茶人 | Trackback | Comments(0)

茶道が導く中道

茶道の使命は形から入って思想と行動の中道を得せ

しむるものである。稽古とは形の制御でこの中道化

を教え導くものである。そういうように工夫してあ

るのが茶道の作法である

千宗守(九世愈好斎聴松)「茶道妙境」昭和15、創元社。

私の好きな方。書く内容はいつも頷ける。

この方は、心に何か深いものを持っていたのであろう、
と感じる。


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by tamon1765 | 2015-03-27 22:07 | 近代の茶人 | Trackback | Comments(3)

鈍翁コレクションと大師会

先に私は、鈍翁益田孝を「美術館を残さなかった方」として分類し、
そのコレクションは散逸したものと考えていました。
しかし、その理解を訂正しなければいけないのかもしれません。

財団法人大師会のホームページを拝見することにします。

団体名ではなく、茶会としての「大師会」は、益田鈍翁によって、
明治29年(1896)3月21日(大師の縁日)に催されたということです。
弘法大師筆『崔子玉座右銘』を入手した鈍翁が、披露のために開いた
茶会で、会の名称もそこが由来ですね。

ただし、「当法人が所有する歴史的文化財」の内容が明記されてない
ので、鈍翁コレクションのどれ程を受け継いだか今の私にはわからず、
判断保留です。




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by tamon1765 | 2012-08-06 06:45 | 近代の茶人 | Trackback | Comments(0)

美術館を残した方

美術館を残さなかった方:
 鈍翁益田孝、狸山団琢磨、箒庵高橋義雄、化生馬越恭平
 松翁安田善次郎、耳庵松永安左衛門
美術館を残した方:
 三渓原富太郎、**藤田伝三郎、鶴彦大倉喜八郎、
 青山根津嘉一郎、 得庵野村徳七、香雪村山龍平、
 滴翠山口吉郎兵衛、 春翠住友吉左衛門、鶴庵嘉納治兵衛、
 逸翁小林一三、即翁畠山一清、古経楼五島慶太、

その収集品が藤田美術館となった、藤田伝三郎の号は、香雪、
芦庵、網川などと云う。一瞬、香雪美術館は朝日新聞の村山の
はず・・・と頭の中が混乱。ということで、あえて、藤田伝三郎に
ついては、**としました。
他の方も、複数の号をお持ちであり、ここに書いたもので限定
されるわけではありません。

なお、美術館を造らなかったからと言っても、良し悪しの意味
合いではありませんので、念のため。
公立美術館に寄贈した方もいますし、逆にご本人ではなく
ご遺族が美術館にされた方もいます。
ただ私の覚えとしての記録です。

きっかけは、太陽no.231「日本経済を築いた数寄者たち」
1982.1.12発行、から。

ところで、この雑誌、探している時に見当たらず、今頃になって
出て来た。整理できていない部屋には困ったものである。


<25.1.6>一部書き足しました。
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by tamon1765 | 2012-04-23 22:28 | 近代の茶人 | Trackback | Comments(1)

真言密教の導入

真言密教の導入によって、禅を支柱とする茶に
絢爛とした美の奥行が生じたことは、否定する
ことの出来ない事実であります。


以上、鈍翁を中心とした近代数寄者について
の、藤井喜三郎氏の言葉です。
具体的には、平安期(さらにはそれ以前)の
美術品を茶に持ち込んだことをいうのでしょう。
戸田勝久氏の文章からの孫引きです。
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by tamon1765 | 2012-01-10 23:13 | 近代の茶人 | Trackback | Comments(0)

茶道修業の錬成者

神経質な落ち着きのない君が、多年茶道修業の
体験が出来たる錬成者とは見えぬ。
おそらく茶道の達人ではなかろう。
心身の鍛錬せられた者は、何としてもその修養が
人格に露れるものである。
理屈や議論は第二義である。
予が君に茶道外の人かと反問するのはここである。
茶道には修行を要することが沢山ある。
失礼ながら茶道体得底の人となって来るを待たん。


田中仙樵氏が、ある方K氏に対して行ったコメント。
著作でも公開していることなので、少し考えた後、
書き改めるつもりです。
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by tamon1765 | 2010-03-18 07:28 | 近代の茶人 | Trackback | Comments(6)

箒庵高橋義雄さんの名前の読み方

箒庵高橋義雄さんをどうお読みするでしょうか?

私は初めは「ソオアン」と発音していましたが、或る時から
「ホオキアン」と読んだほうがいいのではないかと考えて
そのようにしてきました。

ところで、写真図版で、ご本人の書かれたものを目にしました。

 ちる花も紅葉もはきて春秋のあはれをしるは箒なりけり

とあり、やっぱり「ホオキアン」でしょうと思いました。
ある種自己陶酔が入っていますが、なかなか良い歌ではない
でしょうか。

話換わって、荷風全集をめくっていたら、興行会社の松竹を、
荷風先生は「マツタケ」と呼んでいるのですね。
おもわず、微苦笑です。

名前の読み方って難しいですね。



<26.1.18>追記
淡交社の雑誌「なごみ」1986年2月号を眺めていたら、
音羽の護国寺の箒庵の床に掛けられた自筆和歌の写真を
見つけました(P20)。
以前この記事を書いた時、自筆の写真図版を目にしたと
ありますが、ちゃんと記録しなかったことが悔やまれます。

<24.8.7>追記
箒庵自身の「箒のあと」(上p413)によりますと、
・麹町の自宅に、大徳寺寸松庵の茶室(三畳台目)を移築!し、
 新しく、東山西翁院の淀見の席(三畳)を模造した。
・自宅の庭の景色に、塩原の箒川を写した。元々は箒庵は水戸藩
 出身なので、近県の塩原は近しい場所であったことが想像される。
・新茶室を箒川庵と名付けたが、3字では納まりが悪いので、2字
 とし、いつしか雅号になった。
・上記の箒庵の和歌は、常磐会という歌会(山縣有朋主宰)で、
 詠題「箒」の際に詠んだ歌。選者宗匠は4名いて、うち一人が
 井上通泰博士。
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by tamon1765 | 2009-08-10 12:35 | 近代の茶人 | Trackback | Comments(2)

気ま~まな独り旅


by tamon
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