藤戸石
2008年 10月 25日
京伏見の醍醐寺三宝院庭園に藤戸石という石がある。
1450程の石が組んであるという名園の一つであるが、
その中で一際有名な、石である。
藤戸といえば、佐々木盛綱に浅瀬を教えて殺された、
浦の男のなんとも嫌な話しだ。
しかし、この石は武将を虜にし、
1)足利義政の所有となり、
2)細川藤賢が自らの屋敷に移し、
3)織田信長が足利義昭のために建てた二条第へ運び、
4)秀吉が聚楽第へ運び
5)秀吉が醍醐寺三宝院に移した(現在に至る)
というのだ。特に、信長も囃しながら運び、その石の入手を
喜んだとされる。
何故そんなところの石が、と感じていたが、プチたびという
サイトには、
> 庭園は、1598(慶長3)年、豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際し、
> 庭奉行・竹田梅松軒に命じて築庭させた
> 藤戸石は、もともと瀬戸内海の藤戸(現在の岡山県倉敷市藤戸)
> の岩礁にあった「浮洲岩(うきすいわ)」。源平の合戦を見守った
> ことから「血染めの石」とも呼ばれていた。
とある。血染めと言われた物を庭の真ん中に据えるのは私と
しては、どうもちょっと……である。
そのほか、殺された男がこの岩の傍らに流れ着いたとも、戦さに
勝つ武運の石といわれたとの情報もあり、様々な謂れの出典を
知りたいと感じた。
ところで、倉敷市の藤戸の旧蹟は今では全くの内陸部になって
しまっていたが、迫力ある巨大な岩が道の脇にあり立派なものだなあ
と感じたものだ。確か藤戸というバス停前だったと記憶している。
能「藤戸」にも、「あれなる浮洲の岩の上に」とあり、
香西精先生は「浮洲の岩は、のちに京都に引かれて醍醐三宝院の
名物になっている」と断定されている
三宝院では、池を隔てた向こう側なので、眼鏡や双眼鏡を持参し
なかった私には、残念ながらその本来の迫力が感じられなかった。
庭としては、尖ったところのない、ゆったり感のある落ち着いた心休
まる庭である。
石とは関係ないが、今年8月24日に落雷のため准胝(じゅんてい)
観音堂が全焼した。こちらは、西国三十三観音霊場第11番札所でも
ある。平安時代の貞観18(876)年の創建と伝えられ、昭和14年にも
火災焼失、43年に再建された。本尊の准胝観世音菩薩は秘仏。
形あるもの全て滅びるとは言いながら、悲しいことである。
庭園の撮影は確か出来なかったと思う。参拝したのは6年程度前。
写真は、成和園さんのHPからお借りした。
1450程の石が組んであるという名園の一つであるが、
その中で一際有名な、石である。
藤戸といえば、佐々木盛綱に浅瀬を教えて殺された、
浦の男のなんとも嫌な話しだ。
しかし、この石は武将を虜にし、
1)足利義政の所有となり、
2)細川藤賢が自らの屋敷に移し、
3)織田信長が足利義昭のために建てた二条第へ運び、
4)秀吉が聚楽第へ運び
5)秀吉が醍醐寺三宝院に移した(現在に至る)
というのだ。特に、信長も囃しながら運び、その石の入手を
喜んだとされる。
何故そんなところの石が、と感じていたが、プチたびという
サイトには、
> 庭園は、1598(慶長3)年、豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際し、
> 庭奉行・竹田梅松軒に命じて築庭させた
> 藤戸石は、もともと瀬戸内海の藤戸(現在の岡山県倉敷市藤戸)
> の岩礁にあった「浮洲岩(うきすいわ)」。源平の合戦を見守った
> ことから「血染めの石」とも呼ばれていた。
とある。血染めと言われた物を庭の真ん中に据えるのは私と
しては、どうもちょっと……である。
そのほか、殺された男がこの岩の傍らに流れ着いたとも、戦さに
勝つ武運の石といわれたとの情報もあり、様々な謂れの出典を
知りたいと感じた。
ところで、倉敷市の藤戸の旧蹟は今では全くの内陸部になって
しまっていたが、迫力ある巨大な岩が道の脇にあり立派なものだなあ
と感じたものだ。確か藤戸というバス停前だったと記憶している。
能「藤戸」にも、「あれなる浮洲の岩の上に」とあり、
香西精先生は「浮洲の岩は、のちに京都に引かれて醍醐三宝院の
名物になっている」と断定されている
三宝院では、池を隔てた向こう側なので、眼鏡や双眼鏡を持参し
なかった私には、残念ながらその本来の迫力が感じられなかった。
庭としては、尖ったところのない、ゆったり感のある落ち着いた心休
まる庭である。
石とは関係ないが、今年8月24日に落雷のため准胝(じゅんてい)
観音堂が全焼した。こちらは、西国三十三観音霊場第11番札所でも
ある。平安時代の貞観18(876)年の創建と伝えられ、昭和14年にも
火災焼失、43年に再建された。本尊の准胝観世音菩薩は秘仏。
形あるもの全て滅びるとは言いながら、悲しいことである。
庭園の撮影は確か出来なかったと思う。参拝したのは6年程度前。
写真は、成和園さんのHPからお借りした。
<27.7.7>追記
蒿蹊伴先生著「閑田耕筆」を眺めていたら、
下記のようにあった。
「滄桑相変するは、仙人ならではみるべからねど、
佐々木盛綱が渡りし藤戸も、今は陸地となりぬ」
この本は、寛政11年(1799)の跋があるので、
この時点ですでに内陸部に来ていたということが
分かる。
Commented
at 2008-10-25 23:21
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
by tamon1765
| 2008-10-25 23:08
| 石
|
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Comments(1)