将軍家と表千家

表千家は紀州徳川家の茶頭となった。
寛永19年(1642)江岑の時だ。
この後、表千家は代々、紀州徳川家の茶頭を務める。

さて、宝永2年(1705)徳川頼方が紀州家当主と成る。
後の八代将軍吉宗である。
この時、頼方23歳。
一方、茶堂は六代目覚々斎28歳。

さて、将軍就任時にの吉宗は、江戸城に表千家家元を
連れて行ったのか。

答えは、おそらく否、なのであろう。
将軍家が表千家に代わったという話は聞かない。
おそらく、石州流のままだったのだろう。
そしてそれ以上に、街角にある茶道史の本を開いても、
江戸の後半の大名のお茶の記述は少ない。
むしろ、家元制度形成などの町人向けに記述がシフトして
いる。大名では、不昧公と一期一会の井伊直弼くらいしか
見られないように思う。

元々、信長・秀吉に比べ、江戸将軍はお茶に関して印象が薄い。
秀吉は言い方が悪いが、茶や能にのぼせ上がったと言って
いいだろう。(ちなみに、今、のぼせ上がるは、逆上せ上がる
と書くことを知った。逆上ですよ、逆上!)
一方、家康は義務的にやっっていたような、お茶に距離を
置いていたような印象がある。

そして、太平の世。
既に、武士は、戦国期に茶に何かを見出そうとした欲求も
ないようだ。やっても只単に、遊興。
あるいは、出世の手立て(鑓権三)。
武士には茶の宗匠から何かを得ようという空気はなくなり、
お茶を扱う単なる茶を給仕する人ということになっていったの
だろう。それが、お茶坊主、お数寄屋坊主。
挙句の果てには、河内山宗俊(宗号を持っている)…….
利休を淀川べりに見送りにいった織部、三斎とは、武士側
の意識に雲泥の差がある。

例えば、覚々斎が吉宗に接する時間が長ければ、
吉宗はもっと教えを請いたいと感じたのだろうか。
江戸へ招聘したのだろうか。

一方、能では、流派を変えた将軍もいる。
この場合の能は、遊興レベルなのだろうか。

疑問は膨らむばかりだ。
思いつくまま、ダラダラと書き連ねたが、いま少し事実を
調べてみる必要があることは間違いない。
以上、昨夜思いつき、不思議に思った事を書いてみた。


<26.5.30>一部文言追加
<20.10.9>一部手直し
<21.6.15>鑓権三のリンク追加
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Commented by 宗恵 at 2008-10-07 16:27 x
多聞さま、こんにちは。
わたしが住まう新発田は溝口のお殿様が代々石州流のお茶の宗匠でした。
今でも石州流が多いです。
不昧公と井伊直弼に隠れて?あまり世間には知られていませんが
研究もされていないようなので、いつか・・・とは思うのですが・・・。
Commented by tamon1765 at 2008-10-08 12:18
宗恵さん コメントありがとうございます。
私は長岡の出なので、牧野の殿様の宗徧流が興味ありますね。
4年位前に越乃雪の本店へ行った時も、おかみさんは「この地は
宗徧流が多いですよ、」って仰ってました。
新発田は石州ですか、大名家は多いようですね。
ところで下越は、行ったことないのです。いつか、遊びに
行きたい地です。
Commented by tamon1765 at 2008-10-11 13:10
宗恵さんに刺激を受けて、「片桐石州の茶」(講談社、昭和62年)
を開いてみました。
今回茶杓の写真をゆっくり眺めていると、大名にありながら侘びを
目指された方だということが感じられます。
この本はいいです。
Commented by soukei3 at 2008-10-11 15:26
ご教示ありがとうございます。
古本でさがさないとダメなのようです。
頑張ってゲットしなくっちゃ!
by tamon1765 | 2008-10-07 12:35 | 雑談 | Trackback | Comments(4)

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