禅と茶との関係(お詫びと訂正)
2008年 06月 08日
この書き込みを訂正とし、お詫びさせていただきます。
(平成26年12月19日)
私は、「『茶禅同一味』を、宗旦の著作ではない」と断定的に
述べましたが、その根拠を明示することが出来ません。
お詫びの上、訂正させていただきます。
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自分の行ったコメントについて、明らかに誤りの文章は削除
します。曖昧な隠滅は私の望むところではないので、ここに
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引用します。
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---------引用開始
Commentedby tamon1765 at 2008-06-08 11:45x
今は否定されている「宗旦の遺書」であることを前提にして
いる点も、時代的制約を感じる。あまり言いたくないが。
---------引用終了
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読んで頂いた方、特にコメントを頂いた抹茶様にはご迷惑を
おかけしました。
申し訳ありません。
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以上、平成26年12月19日です。
以下、平成20年6月8日の元々書き込み内容
***
伊藤古鑑「茶禅同一味の味わい」(「茶と禅」所収)を読み始めて
みると、強い物言いにやや辟易する。
確かに、禅が茶の湯を形成してきた大きな要素である。
禅がなかったら、お茶はもっとずっと貧しいものだったであろう。
しかし、お茶は遊びではない修行だと、強く言い切られてしまうと、
なかなか辛い。
お茶はお茶であって、禅じゃない。
お茶は遊びではなく修行であるならば、そして修行こそを最優先
すべきものならば、何もお茶をやる必要はない、
一直線に禅をやればいいではないか、いやそうするべきなのである。
達磨大師のように、面壁九年すべきなのであろう。
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しかし、利休さんは、「狭い茶室の中で向かい合っていて(狭苦しく
感じちゃうから?)達磨の絵を床にかけない」と言っている。
http://teabowl.exblog.jp/216424/
つまり、禅の修行と別なものを見ているのだ。
当然である。別物なのだから。
*
とは言いながら、床の墨跡が、自ら何かを考えるためのものでなく、
単に意味を亭主から教えてもらって雰囲気を感じるだけのもの
であるという、今の風潮(と私には思える)も、本当にあるべき
姿ではない、と感じざるを得ない。
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いる点も、時代的制約を感じる。あまり言いたくないが。
アレ?、私の記憶違いでしょうか。
いや、私の勇み足のつもりはないです、とりあえず。
何かではっきり読んだと思いますので、捜します。
ただ、お時間をいただくかも知れないです。
筒井先生が、と仰られると困ってしまいますが、
筒井先生はその識語の意味をどう捉えられたのでしょうか。
「宗旦ノ遺書と断定しましょう、していいです」の意味
なのか、「その当時(江戸期のいつかは?)この本は宗旦の
遺書と思われていた実例になりますね」なのか、
文脈が分からないので、ちょっとコメントできないです。
と、自信をもって書き出しましたが、一寸不安になって来ました。
読んで頂いている皆さんへ、誤った情報をお伝えしたくないです。
そのことを願うばかりです。
今後ともよろしくお願いいたします。