再び 『喫茶去』
2008年 02月 10日
再び 『喫茶去』について
荒金天倫老師(臨済宗方広寺派第九代管長)は、
愉快な方である。
趙州ほどの男が喫茶店の客引きみたいに、「お茶を
どうぞ」というているんじゃない。
「飲むのもお前だよ。悟るのもお前だよ。怠ける
のもお前だよ。冷暖自知せよ。お前がしろ」という
ことなんです。
来る人ごとに「お茶どうぞ、お茶どうぞ」と、茶坊主
じゃないんです。
(『死を見つめる心の科学』p37)
確かに、自己主張では一種異常とも思える(失礼!)
程の強さの趙州さんが、突然お茶でもてなすなんて・・・
何か裏があるような、。。。。(下司の勘繰りでしょうか)
ただ「お茶どうぞ」とは受け取れないし、不自然に思う。
ありえない。
お茶の所謂禅語「喫茶去」は、禅の世界の「喫茶去」
とは別物と考えた方が良いのかもしれない。
いやいや、茶室へ一歩踏み入れれば、そこは道場、
生きるということに厳しく向き合わなければいけない
のかもしれない。
荒金天倫老師(臨済宗方広寺派第九代管長)は、
愉快な方である。
趙州ほどの男が喫茶店の客引きみたいに、「お茶を
どうぞ」というているんじゃない。
「飲むのもお前だよ。悟るのもお前だよ。怠ける
のもお前だよ。冷暖自知せよ。お前がしろ」という
ことなんです。
来る人ごとに「お茶どうぞ、お茶どうぞ」と、茶坊主
じゃないんです。
(『死を見つめる心の科学』p37)
確かに、自己主張では一種異常とも思える(失礼!)
程の強さの趙州さんが、突然お茶でもてなすなんて・・・
何か裏があるような、。。。。(下司の勘繰りでしょうか)
ただ「お茶どうぞ」とは受け取れないし、不自然に思う。
ありえない。
お茶の所謂禅語「喫茶去」は、禅の世界の「喫茶去」
とは別物と考えた方が良いのかもしれない。
いやいや、茶室へ一歩踏み入れれば、そこは道場、
生きるということに厳しく向き合わなければいけない
のかもしれない。
by tamon1765
| 2008-02-10 11:31
| ことば
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